大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2014年07月22日(火)
したがって、懐疑を悟りのように、わからないものとすることが、二世界論という西欧哲学で言う無限遡行のことでしょうね。それらはしたがって、分かることなのです。@Nuebsburg
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posted at 10:46:18
いえ、西欧の用語では無限遡行するな懐疑しろ、つまり神を信じろですね。それが仏教では悟りだとか、真言だとか、実践だとか、不規則に言い換えられるというだけでしょうから、大きな問題では無いと思います。@Nuebsburg わからないことはわからないしわかる必要もないってことでしょうか
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posted at 10:56:21
いいんじゃないですか? 「実践」的で。所詮最後にはニヒリズムしか残ってないので、絶望しないための懐疑の徹底が実践的なのでしょうね。苦しみから悟るのではなく悦びしかない。@Nuebsburg あー懐疑しつつ絶望しないですむよう信じたいように信じろ。ということでしょうか。
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posted at 11:48:33
いえいえ。仏教カルトさんのいうように経験の外に神秘体験を悟るのではなく、悟りというのは現象学用語の地平のことだと思うんですが、経験の内実である知覚に対してアプリオリな純粋時間は、カントの統覚では不十分だ、というハイデガーの方が地平が広いというだけでしょう。@Nuebsburg
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posted at 21:41:55
ハイデガーの地平からは、カントの統覚は、デカルトのコギトがラテン語だったように、ある種の濁りがある。時間だけが純粋で先行している、というのはコギトよりも先行しているということですが、それが無限遡行を懐疑することの徹底、つまり悟りの境地ですね。@Nuebsburg
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posted at 21:44:53
彼の仏教用語に引き寄せるなら、端的に悟りの境地が地平創造ですね。先行するとは、因果の解脱みたいなものなんでしょう。デカルトのコギトだと、無限遡行は懐疑できるが、先行性は神要請ですので不徹底なのです。これでは被造物という因果性が、まだ認められてしまう。@Nuebsburg
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posted at 21:50:22
ハイデガーは、カントが因果律批判としての純粋理性批判を、第二版で統覚=コギトに書きなおしてしまい、神要請=被造世界に戻した、という批判を一貫してしているだけですが、第一版では構想力です。twitter.com/sacreconomie/s... @Nuebsburg
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posted at 21:54:57
因果律では無限遡行なのだが、先行性がコギトによる神要請、つまり創造主ということではなく、構想力という諸感官の瞬時性として、現れてくるというだけです。それは神秘体験のような麻薬的な錯覚とは、全く違う悟りの境地、つまり地平創造だったわけです。@Nuebsburg
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posted at 21:56:48
つまり、無限遡行を懐疑するために、先行した創造主の要請というデカルトの問題を、神の死のようなニヒリズムで捉えるのではなく、カントが発見したような純粋時間性を徹底させることで、いわば因果解脱を地平創造した、という按配です。だからハイデガーは非常に分かりやすい。@Nuebsburg
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posted at 22:06:06
これ以降、因果解脱とか先行性という、経験を超越することは、純粋に現象学の地平創造の問題になったというだけです。簡単にいえば、神と仏が全て捉えられたという状態ですね。だから日本ではハイデガーを仏教語に訳出するのが、ますます国語の営為的な全容になっただけです。@Nuebsburg
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posted at 22:13:33