大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2014年12月25日(木)
眼前存在者が現存在に依存せずに存在するという先学問的な存在了解を、手許性において学的企投(対象化)するという『存在と時間』の挫折から、『現象学の根本諸問題』における先・投としての時間性=超越=世界の発見=転回まで鮮やか。もはや神的認識=客観の廃棄まで一歩。
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posted at 05:09:17
@LitoSnowfield さんが、主観がなくてもモノはあるんでは?と、以前ハイデガーに素朴な疑問を呈していたことが、問題になっている。モノは人間の客観によらずとも「ある」ということがなかなか言えない。 pic.twitter.com/PD6IdLvjoR
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posted at 05:16:39
ご明察。したがってハイデガーの「無」はheideggerforum.main.jp/ej8data/maruya... のように単なる対立項としてしかないのだが、何が問題なのかというと、客観=企投する前から、ある気がする、という現存在の存在了解なのだ。それがないと病気なのだが。@LitoSnowfield
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posted at 05:26:38
それがないと現存在じゃなく機械か何かなのだ。人間なら世界があると客観する前から存在を了解している、その気分が問題にされているのだ。ハイデガーが言う存在というのはそのことで、それを学問の対象(学的企投)にできるかと思ったができなかった、というのが転回。@LitoSnowfield
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posted at 05:32:57
www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf... は、存在了解という先学問的な気分を学問(企投)しようとして挫折した『存在と時間』を、直後の『現象学の根本諸問題』講義で、先・投という時間性の問題に分解し、学的でない企投への転回を予告するとしてるよ。@LitoSnowfield
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posted at 05:47:08
丸山氏の一連の論文みてね。ハイデガー読了者でも新学説に感じると思うが、言ってることは単純で、人間なら病気でもなければ、自然があると先学問性として存在了解=気分があるが、それを学的企投することはできないという確定までの変遷が跡づけられてるだけだよ。@LitoSnowfield
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posted at 05:57:14
このtwitter.com/sunamajiri/sta... の最初の論文が最新だが一番読みやすい。というのはハイデガーは『カント書』で、やっとまともになるからなんだが。しかしその変遷でカントの被制作性(創造主を前提としていること)を暴露したのがよいわけだが。@LitoSnowfield
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posted at 06:01:50