大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年02月09日(月)
この話は、哲学や思想の議論とは無縁の読者には、単に創造主と被造物の関係などない、という現代では自明とされる一点twitter.com/sunamajiri/sta... だけが読み取れる話なのだが、それを明確に記述することの困難が問われている。 pic.twitter.com/iYWWHqZSsh
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posted at 00:05:29
対談で高田珠樹は、ナトルプ報告を察した木田元が、『現象学の根本問題』の順序から手許性に至った、というのは、先日の丸山文隆twitter.com/sunamajiri/sta... の『カント書』直前までの話。 pic.twitter.com/597PeLD1VZ
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posted at 00:15:27
続いて鷲田清一が、それを補うのが「反哲学」だが、それはメルロ=ポンティーの概念というと、高田珠樹が知らなかったという。このようにハイデガーとメルロを横断できたことでテンポラリテートが無のような罠にならない画期的な日本語の先駆となった。 pic.twitter.com/vJJZ9grfPs
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posted at 00:21:06
木田元が『カント書』ではなく『現象学の根本問題』とメルロの「反哲学」によって、テンポラリテートの文脈を回復したというのが興味深い。ハイデガーでは『カント書』に至らなければ、造物主は駆逐されていないように思えるからだ。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 00:23:10
さて、これを捉え損なう、つまり禅でも西田でもよいが、絶対無でライプニッツに対向するとどうなるか、というのが日本人の具体的な関心事。正月のNHK戦後史証言・吉本隆明でも、梅原猛が京都学派を攻撃する吉本隆明を熱弁していた。 pic.twitter.com/WYcAefbJLU
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posted at 00:30:15
ツイートまとめ(^-^)/ 木田元追悼対談に想う、「絶対無から、つまり禅から初めてはならない」。www.facebook.com/kaoru.ohmoto/p...
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posted at 00:53:10
ところで、木田元追悼対談で、より重要なのはこのテクネーの部分。黒ノートシンポでハイデガーを弁護できないと辛辣だった三島憲一氏も出てくるが、黒ノートでは明解にmachenshaft(工作機構、もっといえばユダヤによる作為性)。 pic.twitter.com/slfffYu1L1
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posted at 01:32:22
このテクネー~machenshaftでは、作為に対する自然が出てくるのだが、問題は多義性だろう。丸山文隆が指摘する自然の多義性(手許性)www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf... の前に、ナトルプ報告が指摘するアリストテレスの生の多義性を克服したいだけなのだから。
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posted at 01:34:51
簡単にいえば、被制作性(造物主)を解体することしか、思考はできないはずなのだが、そのことで生み出されるある種の多義性が、思考の正確さを歪めてしまい、いつのまにか作為性・自然・絶対無のようなものが、突然取ってつけたように出てきてしまうのだ。この副産物の処理が問題になってしまう。
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posted at 01:48:01
意味があるでしょうね。中沢も「西田だけが自覚した」と触れてますね。問題は書けているかどうか、だけですが、ハイデガーが無から出発しないことに拘るのは、被投に行くためのある種の手続きのようですからね。twitter.com/sunamajiri/sta... @ecila808
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posted at 02:40:49
英米の経験論が意識を主語に対象化してしまうのに対して、述語化=対象化する意識の場所を与格にするのがドイツ観念論の牙城なんでしょうね。ハイデガーで「無」は~ (続)@ecila808 bit.ly/1xTs1qA 絶対無という語を西田は主語として使うことはほぼなく
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posted at 11:47:13
(続)ハイデガーで「無」は『カント書』で丸山bit.ly/1DSBVh4 の抜粋箇所のように、いわば「無」それ自体になるようですが、西田はそこに独自に向かおうとしているように見えますね。@ecila808 pic.twitter.com/HJj8J7RGqm
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posted at 11:48:23
@sunamajiri 不案内ですが、ハイデガーの無は、あらぬのではなくある的に、存在者の輪郭線というか、浮き彫りにするものというか、対立的な感じがします。西田は存在者と存在の区別をしないので、比べるのがなかなか難しい気もします。
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posted at 12:01:58
@sunamajiri もちろん比較は無意味だとか、西田は禅的だから特別だとか言いたいのではなく、むしろ私も現代哲学のコンテキストに西田を位置付けたいのですが、その内在的困難という意味ですね。これに関しては検討中というか勉強中ですね。
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posted at 12:11:21
私も従来はそう感じていたのですが、ハイデガーの無を、無の対象化の完全な排除として読むと、丸山氏のような整合性が得られる。その点で、無を主語とせず場所とするということと非常に近似しているようにも見えます。@ecila808 対立的な感じ pic.twitter.com/TVP7ErZjZT
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posted at 12:15:33
@sunamajiri 確かにそうですね。対象化されざるもの(まだできないだけとかでなく)として、存在者の連関を開くものとして無を捉えて行くという意味では、接近を示している感じがします。そこで西田は弁証法論理ということを頻りに言い出すわけですが、ハイデガー的にはどうなんでしょう
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posted at 12:18:56
@sunamajiri 学会ができたのも比較的最近ですしね。条件反射の批判で悪者にされるか、やたら神秘化されるかのどちらかが多かった。禅というイメージが悪い影響を及ぼしている。西田が禅とか言われるのを嫌ったのもよくわかります。今はもっとフラットに研究されるようになってきていますね
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posted at 12:42:24
@sunamajiri まあさすがに京都学派の流れを汲んでいる人たちは違いますが、より広くは。まあ西田が論理と言っているものを捉えるのが難しい部分もありますし、実際禅も出てくるので、単なる間違いではないわけですけど。
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posted at 12:55:14
ハイデガーが『カント書』末尾で、ヘーゲルの論理学のダメ出しを繰り返しますが、フッサールやハイデガー、そして西田の言う「論理」は、一般の人のイメージするそれとは、かけ離れてるんでしょうね。実に当たり前のことなのに。@ecila808 pic.twitter.com/vJzWbuad6k
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posted at 13:07:36