大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年03月10日(火)
というより、それを表明的に言っていますね。丸山の言うように被投性テーゼの途上『~諸問題』にこそ、先行した理解、つまり概念という点で、カントが直前性を概念化=時間化できず志向性を知覚と企投した、とありますね。@jeanbeauty2 pic.twitter.com/FUpUmODOXj
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posted at 22:15:44
鍵RT @jeanbeauty2 しかし、実存と、切り離された存在者の存在は、派生的で、むしろ実存から時間の中で、存在者が、存在とともに、立ち現れるということを、言っているように思います。時間が、世界を生み出す。
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posted at 22:07:34
鍵RT @jeanbeauty2 固執というのは、面白いですね。しかし、持続ということ、も、一つの重要な時間の局面であり、また、存在と表裏一体たなって、露呈する、というのも、考えさせられます。
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posted at 22:07:05
実際の日本でそれが現象してるんでしょ。アンセルムスの神の存在証明を、アクィナス以上に廃絶しようとしたカントを、さらに廃絶したハイデガーにとっては、神でも有でも、単なる対立項にすぎないのと同じ。無は単に対立項として在るだけなのだ。概念ではないでしょう。@LitoSnowfield
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posted at 21:39:57
カント書が暴力で(カント学を)卒業するのは、超越論的時間規定、つまり時間だけが常に変わらず流れているということを、余りにも不用意に様相として分類したカントを、一蹴する暴力として語られるのだ。twitter.com/sunamajiri/sta... @LitoSnowfield
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posted at 17:50:22
カント書では解釈は暴力だと宣言されるのだが、その手前の現象学の根本諸問題第一部でも、たしか3回暴力という言葉が使われる。ただし丸山文隆が論証したように、これでは学問(入学)になってしまう。暴力がマックスになるカント書はいわば卒業。ロックみたいだな。@LitoSnowfield
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posted at 17:25:42
具体的には、このページの小前提の箇所なのだが、これをめぐってカントが様相論に陥るのだ。デカルトは自我の眼前化で迂回するのだが、カントでは認識の眼前化で現実性と必然性の述定という罠に落ちるのだ。@LitoSnowfield pic.twitter.com/EvK6jWzpNy
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posted at 17:24:15
同語反復というのは、現象学の根本諸問題の冒頭の神の存在証明のことなのだが、このアンセルムス~アクィナスのスコラ哲学の問題を迂回すると、却ってわかりづらくなる。bit.ly/1F611vr @LitoSnowfield pic.twitter.com/pCeKmrRB9C
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posted at 17:09:05
そこが死角になると、同語反復、自己撞着を引き起こするのだが、ハイデガーにはそこが死角になっていないのだ。これはカント書の手前の現象学の根本諸問題の神の存在証明に対するカントの態度、として現象学的に解明される。@LitoSnowfield
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posted at 17:03:49
端折ると分かりづらいが、様相論というのは現実性をカントに語らせてしまった神の存在証明、そのことで志向性という本来の現実性が、知覚を超越しているということが、カントにだけ死角になってしまった、というようなこととしてハイデガーは解明していくね。@LitoSnowfield
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posted at 17:03:19
英米人は哲学というと様相論とか、仏教のような縁起の話と思いがちなのだが、日本人は馬鹿じゃないから、そういうのを最近では「中二哲学」と呼んだりするからね。それほどくだらん。感謝と御縁は別物。twitter.com/sunamajiri/sta... @LitoSnowfield
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posted at 16:36:23
様相論というのは、概念(経験より先じること)の混乱で、カントでそれがマックスだからね。それを知らずに概念的におしゃべりすると、東が糞食らえといった公共性や一般論になって朦朧とするんだよ。その仕組を知れば、なーんだってなもの。@LitoSnowfield 私もそうですが
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posted at 16:32:57
そうそう、いまや皆そういうのを見抜いている皆天才状態の時代、存在了解のハイデガー以降の時代を生きてるからね。英米あたりの様相論馬鹿に爪の垢煎じて飲ませてあげればいい。@LitoSnowfield それは創作素人な典型なので(笑) <下手な作品=作者が神様
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posted at 04:01:10
あなた天才的ね、わたしよりまとめ方がうまいわよ、それどころかハイデガーよりうまい(^-^)/ @LitoSnowfield よく書けていない文学が作者の神視点になってしまっている…という
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posted at 03:56:02
そうそう、豁然としているのは、ハイデガーには哲学なんて文学の一つにしか見えていないのに、それを迂回するものは宇宙を外部から眺めるカントの視点で様相論の坩堝の中で文学的な強度を見いだせない、つまり宗教になってしまう、というだけだからね。新約だが。@LitoSnowfield
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posted at 03:47:32
ご明察。様相論はハイデガーから見れば被投性に至らない非本来的な思考、つまり疎外の一種なのだろう。ちなみに私は哲学も宗教も文学にしかみていなくて、文学では再専有しか問題にならない。つまり固有名の変更可能性のことなのだが。様相などない。因果律もない。@LitoSnowfield
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posted at 03:40:40
英米的な様相論をハイデガー的に一蹴した後の話をしている東のインタビューでは、それをハンナ・アーレントにもあった公共性、しかしそんなものに力はない、なぜなら様相などなく偶然性は、固有名の変更可能性においてしかないからだ、といっていたね。@LitoSnowfield
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posted at 03:34:28
カントの古い概念、ハイデガーが破棄した概念というのは、様相論のようなんものなのだ。英米分析哲学では温存されるのだが、ハイデガーは一蹴している。それを東がインタビューで、偶然性しかないんだから、そんなもん教えようがない、と結論した点は重い。@LitoSnowfield 古名の古臭さ
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posted at 03:25:18
たいていはドイツ観念論やロマン主義になる程度なのだが、シュタイナーになると、カント用顔はラテン語が語源のオカルトに遡行してしまい、マルクスあたりだと、物神論になったりするものなのだろう。しかしそれらはすべてハイデガーによれば非本来的な逃避の類。@LitoSnowfield
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posted at 03:12:03
構想力は某氏の言うとおり、教えようがないのだろうが、一つだけヒントがあるのは、ハイデガーがいうように、カントの混乱によって生み出された用語、主観、客観、知覚、理性、自我といった古名(古い概念)を破棄しなきゃならない。それでみんな大著を敬遠するのだよ。@LitoSnowfield
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posted at 03:05:28
それでも、『存在と時間』とそれに続く『現象学の根本諸問題』では、丸山文隆が論じたように、学問をしようとしてしまっているのだ。それで取り出されなかったのが『カント書』の時間=構想力なのだ。それほど構想力は重たい。某氏がいうように教えられないものなのだ。@LitoSnowfield
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posted at 03:01:48
ハイデガーは主観は非概念だと一蹴する。同じように、カントでは現存在も実存もアンセルムスの神の存在証明、つまり神の実存のことなので、ハイデガーは現存在は、直前存在ではないこと、つまり人間だと言い切る。@LitoSnowfield pic.twitter.com/TomvsAxd3e
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posted at 02:59:30
『現象学の根本諸問題』は冒頭で、デカルトが神要請でクリアした、神という概念に実存という概念も含む、というアンセルムスの神の存在証明にカントが七転八倒して、実存とか主観とか知覚という用語を多義的に乱用してしまうのを、眼前性のことだろ、で一蹴してしまう。@LitoSnowfield
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posted at 02:40:34
ちなみに、木田元訳で以前読んでいた『現象学の根本諸問題』を、全集版の訳語統一の仕方を見るために再読して、改めて絶妙で唸らされているのだが、この主観を眼前(直前)化させる批判あたりまでが、カント書の手前の問題なのだ。@LitoSnowfield
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posted at 02:33:02
つまり、自分を自我という物として自己客体化してしまう、という混乱が助長されてしまうのだ。それは言い換えると、自己客体化では、実存していない、あるいはそれが疎外だ、という極めてシンプルな見解なのだ。ハイデガーが批判的なのはほぼその一点だけ。@LitoSnowfield
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posted at 02:27:55
そうすると、どういう混乱がおきるかというと、さっきのシュタイナーのオカルティズムのように、知覚と物自体の関係ということだけに囚われるようになってしまう、ということなのだ。それはそもそもカント、さらにはデカルトにあった混乱に過ぎないのだ。@LitoSnowfield
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posted at 02:24:54
その全集版の翻訳では、眼前性は直前性という訳語で統一されてるのだが、要するに自分が自分の眼前にあったりするわけないだろ、ということを言おうとしているのだ。ところがデカルト~カントは、古代ギリシャの直前存在と我を混同している、ということなのだ。@LitoSnowfield
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posted at 02:22:20
どういうことかというと、(デカルトが想定したような)我という眼前物などない、ということなのだ。主体と客体という2つの眼前物(オブジェ)を想定させる、考え方が間違いだ、ということなのだ。言い換えると、自己客体化などというものもできない。@LitoSnowfield
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posted at 02:20:08
この同じことをハイデガーが語ると、もっとシンプル。当然シュタイナーのようなオカルトや、ドイツ観念論のような言い訳にはならない。カントの混乱についてはデカルトひっくるめて、添付のように言い切ってしまうのだ。@LitoSnowfield pic.twitter.com/wXOSN9tb04
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posted at 02:16:33
たとえば、オカルトになってしまうシュタイナーが、カントの問題を、こう twitter.com/R_Steiner_jp/s... 語るでしょ? カント以来の著述では、こうした混乱が増幅の一途なのだが。言葉のインフレーションのようになる。@LitoSnowfield
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posted at 02:04:36
それは、自身訳の分からなくなった書き手が、その自身の混乱を晴らすために、これまた訳の分からない大著を著したりするから、読者が辟易して、今ではツイッターのような一言で済ませようとするも、混乱が一向に晴れない、ということに過ぎないんだろうね。たとえば~@LitoSnowfield
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posted at 02:01:07