大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年07月14日(火)
この前、NYのたまちゃんと、こういう話したのだった。twitter.com/sunamajiri/sta... @LitoSnowfield pic.twitter.com/ab9ywiaB4c
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posted at 08:26:46
音楽は芸術の中で最低とかいうしね。yokato41.blogspot.jp/2013/08/blog-p... 自分で音楽ができない人の被害妄想って一般的なのだが、音楽ができない哲学者は、可能性と当為を自我と語り、時間と語れないんだろうね。ハイデガーもできなかっただろうが、必死よね。@LitoSnowfield
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posted at 08:25:14
そうそう、哲学学の人達の論文の書き方に、何かを要約して、「~ということ、まさにこれである」という強調的な構文が出現するのだが、まさにそれだな(^-^)/ @LitoSnowfield まさにソレですね〜
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posted at 08:07:56
ハイデガーが読みづらくて泣いている人が多いらしいが、ハイデガーってユーモアしかないんではないかと思えるほどだ。たしかに機械は自分が有限であるなどという気遣い(ゾルゲ)、つまり方法をもっていないのだ。@LitoSnowfield 面白くてゲラゲラ笑ってしまいました
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posted at 08:02:55
@sunamajiri あはは(*^o^)> 先程の二枚の文章を読んで面白くてゲラゲラ笑ってしまいました(*^o^)/ しかも尚且つ…当然に?…詩的でもあるという…(*uou)>む〜…(笑)
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posted at 07:59:45
したがって、端的に方法としての思惟とは、誇大妄想して後悔することのないように、有限性をゾルゲ(気遣い)することだ、という方法論がカント書なわけだ。有限性をゾルゲできるのが人間であり、それは自分を神と思うなかれ、という方法論が可能である、ということ。@LitoSnowfield
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posted at 07:57:10
つまり、人間を能力の面だけで神のように誇大妄想していると、現実には違うわけだから、後手に後悔する羽目になり、人間の無能さしか積極的に語られないが、有限性をゾルゲ(気遣い)できる人間だけが能力的にも可能性が最大化するぞ、とカント書は思想化したいわけよ。@LitoSnowfield
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posted at 07:49:27
予め自分を有限と思惟していれば行為する可能性が最大化されるはずなのに、そういう明確な自覚がなく、ハイデガーが批判するカントの動揺のように人間は無際限な可能性があると信じこみ、何か当為をした結果、後手に無能さに気づくのでは、今=過去でありすぎるという話。@LitoSnowfield
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posted at 07:39:10
まあ、それがさっき、こちら twitter.com/sunamajiri/sta... でも触れた曖昧(カント的当為表現の動揺)さからの回復、ゾルゲ(気遣い)、過去としての今ではなく、未来としての今、つまり当為ということなのだ。@LitoSnowfield
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posted at 07:29:31
自己の有限性をはっきり意識すること(気遣い=ゾルゲ)というのは、カント書では回復(旧訳語で反復)と術語化される(最終章の表題)。デカルト的な要請の内、当為という可能性は有限性である、ということ。 @LitoSnowfield pic.twitter.com/yX1GV972Cs
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posted at 07:27:25
カントには動揺があって、まず人間が何であり、それ故に人間は何を為すべきかか、という人間学として根拠を曖昧にしたまま受け取ると、人間を能力的に無際限に列挙して、結局、人間の有限性を後手に不完全さとして露呈するにすぎない、といった話だからね。@LitoSnowfield
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posted at 07:18:10
自我(フッサール)なのか人間(シェーラー)なのか時間(ハイデガー)なのか、という術語のどれを可能性(規則)の根源規定とすれば、デカルト的な要請に整合するか、という話なのだが、可能性(当為)は有限という関心(ゾルゲ=気遣い)のことであるのに~ @LitoSnowfield
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posted at 07:17:58
ちょうど、宮﨑駿のインタビュー blogos.com/article/122316... を読んだが、人文学廃止に向かう日本という件で、冷戦後の日本に曖昧さが蔓延っている、と答えていた。この曖昧さ、つまりカントの当為の曖昧さ、それを払拭することが、いかに急務であるかは、特筆するべくもない。
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posted at 05:08:56
かつて、大江健三郎が「曖昧な日本」と語ったが、それは日本の固有性であるより、カントの曖昧さを鵜呑みにしただけだといって過言でない。その曖昧さを払しょくすることが仏文にはできなかったが、戦前のハイデガーには可能であった、ただそれだけのことでしょう。
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posted at 05:04:17
始まりのハイデガーとは、そのトラウマのような過去に引き摺られ、朦朧とした今=自己となることから、はじめて自由になった瞬間のことであるはずで、それだけが日本人を超えた、あらゆる当為、つまり倫理の根源となるものなのでしょう。
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posted at 05:03:56
しかし、非西欧人と限定しようとも、過去に無限遡行してしまう今には、いくら反省しても自己はいない。その普遍性は、日本人にも単純に妥当する。ただそれだけのことだ。
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posted at 04:48:47
このことが、日本では受容的に非常に混乱し、挙句にポストモダンや、柄谷行人のような起源論という、ハイデガー批判に直結しているのだが、そこにあるのは、ハイデガーは西欧人で、日本人は非西欧人だ、という二元論。
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posted at 04:48:28
柄谷行人などは、この自我分裂と心中しようとするが、解釈学はカントの曖昧さ、時間の無限性を、対象の根源規定と表明し、過去に無限遡行する反省的自己から、つねに今である、本質的な自己を獲得する。そういうことが語られている。
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posted at 04:47:47
フッサールは、カントの論理学を心理学と批判するために、対象の根拠規定をデカルト的な自我においた。しかしそれでは自我分裂にいたり、現象学は崩壊してしまう。~
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posted at 04:47:39
自分を過去として無限遡行すればメランコリー(鬱病)になり、自分を常に未来である今として捉えることができれば、有限な自己がクリアに浮かび上がってくる。これを表明しようとして非表明、つまり曖昧にしたカントを、表明的にするためには解釈学しかない、そういう営みです。
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posted at 04:46:41
しかし、そうした自己反省という理屈ではなく、今が常に未来であるような意識。今が常に同時に未来であることを根拠に、自己を対象化できた時、有限性という、コギトが要請する最も重要な魂が宿ることになる。
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posted at 04:46:08
今という瞬間はすぐに過去なのです。今といった瞬間に既に過去だ。今というのは同時に過去ですらある。その過去を根拠とすると、自分が無限に遡行して、その無限遡行は宇宙を突き抜け、造物主のようなものを要請してしまう。
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posted at 04:45:48
ハイデガーの始まりは、いわゆる柄谷行人が渾身でハイデガーを批判して言うような起源論というより、意識=今はつねに未来にある、という先駆のことで、それによって対象化、つまり自分を見極めることが出来るというものでしょう。
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posted at 04:45:35