大本薫 Kaoru Ohmoto
- いいね数 11,694/13,358
- フォロー 2,831 フォロワー 2,653 ツイート 290,630
- 現在地 東京 LA NY 茅ヶ崎 鹿児島
- Web http://www.sunamajiri.com/
- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年09月15日(火)
ただ、いずれにせよ、「極点」というのはハイデガーの言う眼前性、あるいは時間規定が与えるものとしての対象関係性にすぎず、おそらくそれが非実体的であるのは、矛盾律的というより、根拠律的なんだろうな、という感慨しか抱きようがない。@kundhunda
タグ:
posted at 22:04:05
~といった、今日、極点の矛盾律を記述する素粒子論の問題と同型で、素粒子レベルでは実体性が存在していないから、根拠律は非実体性の規定なのか、という命題になりかねないので、私は素描というか雑談程度しかできない。bit.ly/1OsZzrJ @kundhunda
タグ:
posted at 22:01:52
この問題は、菊池によれば、ハイデガーよりカントの形而上学講義に最も明示的表明的な、霊魂という根源規定(純粋規定)は、潜勢的非実体性の規定なのか(つまり脳のような身体は霊魂でないのか)という命題であり、ニュートンの絶対空間が質点を必要とした相対空間である~ @kundhunda
タグ:
posted at 22:01:35
しかしその前に、カント書や菊池健三の超越論的時間規定=純粋地平という、いわば純粋現象学に到る前に、ハイデガーのカント講義書(カントの純粋理性批判の現象学的解釈講義)を読むべきだ。ハイデガーの『存在と時間』の叙述の問題が、ほぼ規定の問題に形式化され解消している。@kundhunda
タグ:
posted at 21:46:18
要するに、自由が、カントの言う人倫の形式性、つまりニュートン的な自然法則からの自由の形式性なのか、というのがハイデガーがカント書末尾の回復で、どう解釈されているのかが重要なのだが、ハイデガリアンはこの問を避ける傾向にあるように見受けられる。@kundhunda
タグ:
posted at 21:45:30
カント書第四章の人間学(からの)回復が、カント的形式の誤謬なのかどうかなのだが、菊池健三はそれを回避して、自由の法則性を記述している。菊池→bit.ly/1iLVC5q カント書→bit.ly/1OcciQA @kundhunda
タグ:
posted at 21:43:57
ちょっと触れておくと、菊池健三は、『カント書』第四章の人間学の命題、つまりカント『論理学』の問題を、回復として取り上げたハイデガーを退け、純粋に自由の問題として記述することに成功している。しかしこれに関してはもう少しテクスチュアルであるべきで、私は保留する。@kundhunda
タグ:
posted at 21:34:13
菊池健三のカント動力学は、霊魂を実体としたライプニッツのデカルト解釈を批判するカントの霊魂は潜勢的規定だというものだが、ハイデガーのカント書の第四章のカントの人間学の命題を、自由の命題に買い換えることに成功している。もうちょっと咀嚼してからまた話題にしますが。@kundhunda
タグ:
posted at 21:26:38
ハイデガーでは、規定を形式的告示することが方法として意識化されているが、菊池健三の場合は、規定性であることを自明視することを方法としているために、カントが非実体性で、ニュートンやライプニッツのどんな実体性を批判したのかを判明に記述できているからだ。@kundhunda
タグ:
posted at 21:01:38
彼らの話題は、いかにプラトン的なものを非実体化させる根拠の規定を得るか、という問いであって、我々非西欧人が入り込めない話題なのは確かなのだが、この非実体性がカントで何を意味していたのかは、カント書以上に、菊池健三のカント解釈が奮ってる気がした。@kundhunda
タグ:
posted at 21:01:04
カント~ハイデガーのプリオリテート~テンポラリテートという根源規定、あるいは根拠律の話は、本来は規定性の種別のように和訳すべきなのかもね。現代思想は脱根源の話をしてるようだが、日本語の訳語が未決定すぎて、話題に入ってこれない人が多いから。@kundhunda
タグ:
posted at 20:49:42