大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年09月26日(土)
とはいえ、『カントと動力学の問題』の菊池健三が彗眼なのは、時間規定がハイデガー的に有限(超越論的)であるからこそ現勢的という地平から、カントの潜勢的時間規定を捉え直している点だ。これでハイデガーが『カントと形而上学の問題』で提起した超越論的時間規定の問題が、全面的に解決している。
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posted at 22:42:05
もちろんこのことは、霊魂という規定名が、時間を永遠とする地盤の中でだけ通用する規定名で、時間自体を有限化する現象学においては、そのような根源規定の名称も不要化したという事態でしかない。これほど、ハイデガーはカントとは対照的だ。
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posted at 22:38:07
時間を永遠化させかねないカントのような規定の仕方では、霊魂が潜勢=非実体化するのに対して、ハイデガーのように時間を有限化する規定の仕方では、現勢化するはずの非実体の規定名が、それであるとはっきりと名指されない、という事態だ。
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posted at 22:36:05
とはいえ、ハイデガーが表明的でないことを、菊池はカント全集の動力学を頼りに語らせている。ハイデガーは時間を有限化しても霊魂の現勢を表明する徹底を得られていない。しかしカントでは時間の永遠化のために潜勢的霊魂の不滅が語られている。つまり、ハイデガーは現勢的時間を表明できていない。
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posted at 22:28:10
ここから、菊池健三『カントと動力学の問題』の、いわば思弁性が明らかになる。同書は、ハイデガー的な現勢的時間から、カントの潜勢的時間を捉えいてるのだが、それがいかに現勢的時間に転回するのかは、ハイデガーのように表明的(明示的)ではない。
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posted at 22:20:49
意識や自我(という規定の仕方)では、霊魂と時間を非実体と規定する徹底性が得られない。この霊魂と時間という根源規定の相剋は、菊池健三によるとカントは霊魂を潜勢させる永遠の時間という規定性。それに対して、ハイデガーは霊魂を現勢させる有限な時間の規定だ。
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posted at 22:20:35
(大幅増量)語りえないものは、非本来的な語りによって、語らされないものだ。ハイデガーが注目したカントの図式論、超越論的時間規定とは、時間が永遠という非本来になる時、本来の自由が語れない、という問題である。「私家版ハイ.. togetter.com/li/878618
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posted at 09:30:38
したがって、デカルトの方法的懐疑に呼応して、存在証明を保留することである、現勢的霊魂と有限な時間、あるいは人間を死力ではなく活力として語ることを、方法論化する。それがハイデガーのカント書までの、時間の再規定、つまり前メタ存在論となっているようだ。
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posted at 03:45:47
死力と活力、潜勢と現勢という、2つの様態なのだが、ハイデガーでは前者(死力と潜勢)は非本来的な時間に規定された語り方、後者(活力と現勢)が、語り方としての本来の時間だ、ということになるのだろう。ラテン語と違い各国語は、このように活力と現勢を本来的に語ることで、生成するという。
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posted at 03:43:30
これを霊魂という規定で語り直すと、霊魂を潜勢態として語るのでは、非本来的な語り方だということになる。それでは時間は眼前の永遠時間として規定されているので、霊魂は現勢できない。霊魂が現勢というのは本来的に語れるようになる、ということなので、国語が生成されていないということなのだ。
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posted at 03:40:16
~ラテン語からドイツ語などの近代国語の生成の根本問題と言われるものです。すなわち、デカルトの場合のフランス語や、ヴォルフのドイツ語のように、各国語というのは、存在を証明することを休戦する、という規約の要請に呼応している、ということなのだ。
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posted at 03:37:59
ところで、これは存在を証明するラテン語に対して、言語(観念)は単に規定(概念)である、という営みなのだが、アリストテレス霊魂論の規定を、人間の死力とする眼前時間という規定(霊魂の不滅)を、いかに非本来的な語りとして排除するか、というのは~
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posted at 03:36:31
この twitter.com/sunamajiri/sta... ように、霊魂を潜勢させる時間の規定である、永遠ないしは眼前という時間が、ハイデガーによって非本来の語り方として退けられ、本来的には霊魂は現勢的な自由意志とするのが、語りの姿だ、ということなのです。
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posted at 03:32:30
その結果として何が起るのかというと、自由意志が第一原因=神にしか想定されず、潜勢態でしかなかった霊魂が、現勢という態勢、つまり自由になる、ということで、それが語りとしての本来の姿だ、というのがハイデガーの主張のように読める、ということなのです。@aliceizer
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posted at 03:28:47
つまり、言い換えてみるならば、霊魂を不滅にするような潜勢という霊魂観(アリストテレスのカント的な規定の仕方)では、霊魂は眠ってるようなものなのです。自由も神の自由のことです。それでは語りとして非本来的ではない。そこでハイデガーでは時間が永遠でなくなる。@aliceizer
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posted at 03:26:30
ちょっと言い直しておくと、今トゥギャッターのタイトルに反映させましたが、潜勢を現勢することです。カントでは霊魂は潜勢だが、それでは時間規定は永遠になってしまう。なぜなら霊魂が不滅だからなのだが。それを非本来的な語り方とするハイデガーでは霊魂は現勢です。@aliceizer
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posted at 03:25:04
存在を証明するラテン語に対して、言語(観念)は単に規定(概念)である、という営みである。アリストテレス霊魂論の規定から、人間を死力にすることなく、活力としての人間を見出すための語りを、どうやって得るのか、という方法論.. togetter.com/li/878618
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posted at 03:09:28
カントが時間を潜勢した霊魂の不滅として語るために、ヘーゲルは眼前時間と神をマルクスは時間の永遠と人間の無力を語る。それを非本来的なお喋りとするハイデガーは存在の不証明を要請したデカルトに応えて、時間を有限と規定し直し人間の有力を語る。 pic.twitter.com/DO6T8vEvHa
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posted at 02:28:04
ここから判るように、マルクスは人間を有力視する時間性を語れていない、というのがハイデガーの最も重要な問題のように思われる。永遠の時間を語る馬鹿者は、存在証明と因果律という非本来的なお喋りに頽落しているのだ。それが無力な人間ということになってしまう。
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posted at 01:56:24
恐らく、このようにマルクスの人間観と対比すると、ハイデガーのいう時間というのは金言(アフォリズム)のようになってしまう。時間を永遠と捉えれば人間は無力だが、ハイデガーでは時間が有限なので、人間が文字通りの有力になってしまうのだ。このことの重要性は計り知れない。
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posted at 01:52:13
ハイデガーの言う時間というのは、時間は他我が共有する永遠や無限ではない、ということに尽きるのだが、たとえばマルクス twitter.com/karlmarxbot001... では、時間は無限だが人間は無力なのだ。ハイデガーでは時間は有限だが人間は有力なのだ。
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posted at 01:45:45
これは簡単な話で、人が神のような存在を証明できない、という規約を完全に樹立し、規約が生じるということは、それがデカルトの要請以上に、厳密に共有できる論理性が生じるという話なのだ。
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posted at 01:30:23
『存在と時間』でヘーゲル(の眼前の今という点、としての時間概念)を退けても、まだ時間が完全に規定性となっておらず、カント書において、存在を証明しないための規定が、カントに戻って完全に反論されてからは、メタ存在論に転回するのだ。
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posted at 01:28:24
要するに、存在を証明するな、というデカルト的な格律を、ハイデガーだけが厳格に遵守している、ということなのだ。カントですら、時間を規定しても、ヘーゲルに移行=眼前時間を語らせてしまう。それは存在証明が残存しているからで、完全な規定性になっていない。
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posted at 01:24:52
ハイデガーは最終的にカントの時間を切り捨てるのだが、カントでも時間は完全に規定性の問題になりきれていない。規定というのは、存在を証明しないための約束事ということなのだが、カントでは時間という規定も、非実体の存在不証明の規定として完全化していない、というのがハイデガー。
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posted at 01:22:34
カントでは、霊魂という非実体の規定は、実体的な脳への潜勢、平たく言えばカントは一貫して、霊魂が身体に宿る、と考えるのだが、その矛盾が晩年に噴出していて、それが移行とかエーテルの問題になる。おそらくハイデガーはそれをヘーゲルに見ている。
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posted at 01:19:41
『存在と時間』第82節で、ヘーゲルの眼前時間は、止揚=移行の問題というのも、蛇足すると菊池健三が指摘する晩年のカントのエーテルへの移行の問題で、おそらくハイデガーはそうした実体概念自体を、退けようとしている。これについて少し考える。
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posted at 01:17:49
ここ twitter.com/sunamajiri/sta... で言っていることも、弁証法はカントの言う規定の問題を誤解している、というハイデガーの反論なのだ。ヘーゲル的に時間を眼前に止揚することは、カントの規定に矛盾して、ラテン的な非実体の存在証明という矛盾律に陥っているという。
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posted at 01:15:26
存在を証明と捉えるラテン語に対して、カントは非ラテン語的に、実体とは単に言葉の約束事、規定性(根拠律)の問題であり、非実体を実体として証明することは独断だとするんだけど、それを規定性と思わない人他、依然として非実体の存在証明を行うのが矛盾律の問題なのだ。@inja650rr
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posted at 01:13:28
経験が存在証明だ、という古びた命題に固執して、聞く耳を持たない、経験に微睡む人間がいることが、私には到底容認出来ない、最も腹立たしいことなのだ。すこし感情的になるのは、私がいま空腹だからで、これからお弁当を食らうので、お許し願いたい。(^-^)/
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posted at 00:21:58
それは元の話に戻れば、端的に、他人の経験は存在証明できないのだから、思いやる必要もない、という現代日本に蔓延している雰囲気のようなもののことで、その想像力の欠如は、単に罪ということであるに過ぎない。いわゆる弁証法は、ハイデガーによれば罪ということになるのだ。
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posted at 00:14:16
このことでハイデガーは、眼前時間=点性ないしは質点を齎す弁証法を、頽落した存在証明と退けているのであり、時間はハイデガーが言うように弁証法的な眼前性(今という眼前の点)ではない。ここまでやっても、まだ存在を証明できると独断するならば、それは神を畏れないということだろう。
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posted at 00:10:42
存在は証明できないというのは、単に弁証法ではない。ハイデガーはヘーゲルが、空間は時間であるとする、否定の否定、止揚のことである点性を、時間としては眼前時間であり、カントがニュートンの質点を動力学で退け、移行と潜勢の命題としたことに重ねる(存在と時間第82節)。
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posted at 00:07:31