大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年11月03日(火)
まあ、ハイデガーから見れば、カントですら(事象的には)時間でないわけだからね。twitter.com/sunamajiri/sta... pic.twitter.com/CMFHik5Ph4
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posted at 06:52:40
ハイデガーは語りの根(根源)を時間とみなし、カント的な超越論すら、上辺の談義 twitter.com/sunamajiri/sta... とか、語りの動揺とか、単なる言明に過ぎず、いわば時間的語りではないと主張したいんだろう。事象的には時間は語りの根でしかないという。
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posted at 07:05:03
その点では、確かに「カント風」の語りより、デカルトの方が、語りの根としての時間事象性があると言えるのかもしれない。カントでは超越論と動力学で、そこからは死力に見えるコギトにこそ、実は現勢的根源である時間があるのだからだろう。
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posted at 07:11:19
ハイデガーの場合、一元論的な根源規定以外は無規定的で、たとえば観念論と実在論という規定からはマックス・シェラーでは、人格性しか明らかにできず(GA26-167)、さらなる語りの根源規定が必要と語るのだが。 pic.twitter.com/Eub1Zje84j
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posted at 07:20:44
いずれにせよ、語りの根の時間というのは、弁証法が齎す時間は空間との止揚の幾何学的交点で、無としての点だという点時間を非本来的なお喋りに退ける、時間は点ではなく根だという言明のことで、それ自体を気にしても語りが弾むとは限らないのだが。 pic.twitter.com/GhTaobvL3o
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posted at 11:32:20
菊池さんの無記の解説の仕方が、優れてハイデガーのライプニッツ講義 twitter.com/sunamajiri/sta... の具体的要約に見える。同一性=真理の判明さを奪う時間は根としてしか語り得ない。 pic.twitter.com/vFT1eHTaEL
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posted at 13:16:31
この問題がどう重要かというと、時間と形式論理学という水と油を厳密に分節できない不徹底が、あらゆる仮象や曖昧の原因になるからで、特に日本で西欧を近代性として慌てて摂取する際に、西欧人が転倒しないような所で、論理学や自我を絶対視して転倒するということが癖のように繰り返されてきた点だ。
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posted at 13:50:48
近代(的自我)だけで西欧を断片的に捉えるようなことをすると、汲み尽くせないどころか、端的に根である時間を捨象した同一性=真理の形式論理学的証明という罠に堕ちる。これがハイデガーの現象学的批判だが、この罠は怖ろしい。なぜかというと、彼らは我々には無記であることをあえて語るからだ。
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posted at 14:29:22
要するに、方法ではあり得ないはずの死に方だけが関心事になってきたので、そうとは知らず彼らの論理性=同一性を真に受けて生きようとすると、同一性が捨象する時間を生きれなくなる、ということになりかねないからだ。
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posted at 14:36:01
とはいえ、同一性と時間の差異を徹底解明したハイデガーすら、日本では戦後に断片化され心的深層や認識論という無時間の系 togetter.com/li/891272 のように仏教と接合されてしまう。ハイデガーはむしろ仏教から見れば、時間的徹底を方法的懐疑として厳密化しただけなのに。
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posted at 14:44:19