大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年11月04日(水)
まさにね。その際、毒矢の喩え twitter.com/inja650rr/stat... と同じだが、量子論に回帰する西欧近代思想を、存在論の不徹底としての認識論で語ることに対して、ハイデガーのように形而上学の根源から語ることで、毒である不徹底を除去できるのだけどね。@inja650rr
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posted at 11:22:05
それが動力学では潜勢する自由運動というカント以来の実践に対する、西欧の再セム化、実践の良心への一元化という、彼らの言う契約の文言なのだ。この実践を、今では実存というだけのことだ。twitter.com/kikuchi_8/stat... @inja650rr
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posted at 11:33:06
仏教徒の落ち度があるとすれば、それは端的に譬喩や方便としてしか契約を語れないことなのだが、西欧では存在論が認識論のような不徹底に至ったことが、却って一元論への決定的契機となったのだろう。それを侮ることは、仏教的にも愚かさを表す譬喩となるしかない。@inja650rr
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posted at 11:35:55
ちなみに、認識論なのか存在論なのか、いやメタ存在論でフルーム問題とはおさらばよ、というのはたとえばハイデガーのGA26-190-191のような語り方になるのだが。@inja650rr pic.twitter.com/Elesah8vFA
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posted at 14:09:56
@sunamajiri 御釈迦様は自らの至った境地を、経典に記さず、喩えを駆使して対機説法をしていたとされます。
この非言明の態度にむしろ私には賢者としての思慮深さを感じます。
それは真理を語らず方法を語ったデカルトと実に似ているように感じるのです。
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posted at 14:22:18
仏教徒のように譬喩を語るのか、契約(命令)を規則化するのかの違いでしかないが、デカルト的方法以後、存在論そのものが徹底されるというのはハイデガーのいう存在論的差異の問題だから不可避なのだろう。続 @inja650rr pic.twitter.com/fcYFgNVc70
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posted at 14:38:07
ハイデガーの批判は、デカルト的方法をカント主義者が方法論に頽落させることへの批判だが、それを言い当てる存在論的差異はこの要約のとおり、驚くほどのこともない。@inja650rr pic.twitter.com/XsWK3U1L73
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posted at 14:43:59
要するに世界が永遠に実在するという幻想に対して、現実にそれが世界となるのは有限な時間の出来事で、それを譬喩として語れば、また永遠時間という無規定に堕落するので、厳粛に譬喩を規律に置き換えるべき、という話なのだ。彼が批判するのは、それを怠る言表者なのだ。@inja650rr
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posted at 14:48:28
そこでは、その譬えも厳粛に禁止される。twitter.com/inja650rr/stat... 要するに現存在は、自分の眼前に空間的に対象化=延長された時間ではない、という規則からは、人間を何らかなモノやその機能に喩えることが、まさに形而上学的として退けられるのだ。@inja650rr
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posted at 14:55:13
そうそう。方法と方法論の差異以上に、とくに新カント派 twitter.com/sunamajiri/sta... に至って、認識論を心的実在論のように形而上学化させることを、ハイデガーは批判哲学=超越論してるだけだからね。togetter.com/li/891272 @inja650rr
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posted at 15:08:02