大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年11月08日(日)
実存より先行=超越する世界=コスモスとは、自然のことというよりは、人間とはいかにして人間かという、現実存在のことだ、というのは、bit.ly/1LYsotS の前半。後半は善のイデアはイデア=観ること(直感~認識論)ではない、という話。@BeTakada
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posted at 00:10:13
『カント書』は twitter.com/sunamajiri/sta... のとおり、カント『論理学』のいう第四テーゼ人間学を、人間とは何か(動力学?)ではなく、人間とはいかにして人間か、という超越や先学問性の根拠=根源規定を真理として与えるのだが、それの前哨部分。@BeTakada
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posted at 00:18:25
なお、先学問性=超越の時間性、というライプニッツ講義~カント書に至るハイデガーの問題は、テクスチュアルには、東大の丸山文隆のテクスト研究 twitter.com/sunamajiri/sta... が、おそらく世界最先端だと思う。私はそれを平たく言い換えているだけなのだが。@BeTakada
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posted at 00:25:06
人間という世界は如何にか、というのが本来の形而上学で、人間とは何かというのは、近世の形而上学の覆いだ、というのはハイデガーがカント書に到るまで繰り返すことなのだが、昨日の箇所では画像。カント書第四章ではこれが書き換えられる。 pic.twitter.com/236VLiH3lZ
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posted at 13:37:39
人間は世界だからこそ、何かではなく如何にかだ、というハイデガーのカント批判は、カント書第四章で完成しているのだが、『カントの動力学の問題』の菊池健三だと、動力学はこの命題を度外視することだ、と扱うのでハイデガーと好対照。bit.ly/1iLVC5q
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posted at 13:42:07
そしてハイデガーの言う本来的形而上学というのは、人間とは何かという非本来的な問(ライプニッツ~バウムガルテンが覆い、カントが払拭できなかった問)に対して、人間は世界だから如何にかだ、という本来性のこと。ハイデガーはこればかり言う。 pic.twitter.com/cUZesmvEh6
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posted at 13:44:11
余談だが、だから端的に日本人が形而上学はダメだ、という言い方をするときの非本来の形而上学は、ハイデガーではライプニッツ~バウムガルテンが覆い、カントが払拭し切れなかったもののことを指すので、古代のことでも中世(神学)のことでもない。如何にを何かに変えてしまったことが非本来性。
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posted at 13:53:08
要は先学問性を学問論することだけが、方法的懐疑の不徹底を除去するという話なのだが、不徹底とか非本来性というのは、世界=如何にでしかない人間を、モノ(延長)のように何かと、と問う近代形而上学の堕落のこと。中世までは寧ろそれがなかった。bit.ly/1LYsotS
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posted at 14:15:59
ざっくりいうと、中世まではむしろ、人間という世界は、現勢のことで、潜勢を指していない。それがライプニッツ~バウムガルテンから潜勢を指してしまい、カントが潜勢を現勢に払拭できなかった、というのが厳密な意味でのハイデガーの非本来的形而上学という批判なのだ。
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posted at 14:16:13
要するに、デカルトの懐疑的不徹底である「延長」の形而上学性=眼前存在がハイデガーのいう非本来的形而上学。言い換えると心身二元論=潜勢性のこと。古代から中世までは世界=人間は現実存在のこと。カントでは「系列」に対する「現実存在の様態」に辛うじてなっているが、不徹底がある。
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posted at 14:16:32
現実存在を系列に対する様態にしたカントの不徹底が、このハイデガーによるGA26(ライプニッツ講義書)のカント批判の趣旨。bit.ly/1PuDaKR 『カント書』では図式論から、この問題がすべて払拭されている。つまり人間は何かではなく、如何にか=方法になる。
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posted at 14:16:53
要約すれば、人間は自ら世界というように、人間はモノのような対象ではなく方法であるのだが、デカルト~カントまでの方法的不徹底が、人間をモノ(霊魂や実体)に潜勢させてしまった。それを超越するのは如何なる方法か、とハイデガーは問うている。
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posted at 14:41:34
デカルト以後の形而上学の非本来化によって、最も顕著だったのが時間の眼前(直前)化、つまり対象時間化であり、そうした時間規定は根源的ではないので、テンポラリテート=存在者一般とか、存在者の全体の時間性が有限化せず、全体における存在者=被投性を企投できなくなる。
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posted at 14:44:11
カント書第四章(回復による形而上学の基礎づけ)とは、カントの人間とは何か、というデカルト的延長を払拭し、人間=世界とは如何にか、という根源時間(カント書第三章)に規定しなおす方法的遂行。時間を根源化しない方法は潜勢的だが、方法を現勢化する規定は根源時間だ、とされる。
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posted at 14:52:41
世界内存在=超越が先行する=根源時間であることで、人間は方法=如何にかを、自由に遂行できるのだが、それは先学問性=超越や世界を、方法化=学問化すること。それは人間が何かではなく、方法=超越=世界内存在であり、タブラ・ラサではないということ。
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posted at 14:56:33