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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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Favolog ホーム » @sunamajiri » 2015年11月10日
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2015年11月10日(火)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

ここのことですね。www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf... 同一の話題はなるべくスレ化してレスっていただけると助かります。@BeTakada pic.twitter.com/wUweq40uuV

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

世界入場(進出)のGA26-238-252は、キルケゴールの単独者の実存も、それに対するブーバーの我と汝も、デカルト的要請から主観客観として自我を規定する独我論で、超越をエゴイズムと誤解している、という批判です。@BeTakada bit.ly/1WNYxHL

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

説明が後付なのは、デカルト的要請の方です。そんな取り決めで形而上学を中立化することはできない。現存在が超越であるのは、人間同士の社会的取り決めではなく、中立的な形而上から捉えると、超越だけが先行しているという事態だ、というくだりです。@BeTakada

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

とはいえ、この箇所で頻出する「中立的な形而上学」という言い方が、はるか前に登場していて、性別が分化する(異性がいる)のは、時間関係からみると、社会的に人間が取り決めたことではない、という部分でそれが言われているので、ハイデガーも巧くまとめているとは言いがたい。@BeTakada

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

しかし、困難は個体発生と人類の発生の混同というよりも、手許性で全宇宙を先把握する先学問は、どう了解できるかということのようですね。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada 人間の起源と個の起源は異なる、という事。存在論を語る上で総じて其処が欠けている。

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

世界入場(進出)は、カントの世界市民でも規定の不十分だという箇所なのだが、実はその次の箇所がもっと難問、無の時間に関して触れ始めるからなのだ。しかし、自己が他人でなく、他人も自己のように現存在=超越、というのは人間の取り決め=要請ではない、ということです。@BeTakada

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posted at 13:37:15

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

今、解釈したこと(形而上学的中立とは、我々による合意や認識というデカルト的要請より先なることで、それが存在者の存在を論じるということだ)を、GA26でテクスト的に明証すると、例えば bit.ly/1M3kGib と抜粋できます。@BeTakada

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posted at 14:09:08

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

この形而上学を中立化させると、先行するものは世界という超越だ、という先学問(先哲学)を如何に了解するか、という困難な問題を、丸山文隆の www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf... がどうテクスト的に扱っているのか、私も久しぶりに後刻再読して検証してみます。@BeTakada

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posted at 14:09:28

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

現勢を現勢と語らないこと=潜勢させること。それがカントの動力学と晩年のアストラル体の問題だ、というのが菊池健三『カントと動力学の問題』twitter.com/sunamajiri/sta... だが、それではシュタイナーだ。bit.ly/1M3lXpB

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posted at 14:28:33

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

要するに、カントの動力学~超越論を、潜勢した霊魂論と徹底させるとシュタイナー、霊魂の身体性以上の現勢としてフルに読むとハイデガーになる。どちらに徹底するかということで、じつは同じことを、ある意味同じように語っている。ただし結果は潜勢と現勢で大違いだが。

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posted at 14:30:14

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

同じこと(潜勢)を、同じように(潜勢性から)語るが、シュタイナーでは潜勢、ハイデガーでは現勢に、それぞれ徹底化されるというのも、シュタイナーではデカルト的不徹底ということに思えるのだが。twitter.com/sunamajiri/sta...

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posted at 14:32:19

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

潜勢と現勢は、ネガツイ、ポジツイほどの違いなのだが。同様にショーペンハウアーは哲学談義の俗者だというのも、ショーペンハウアーが根拠律から扱う気分はネガティブ、ハイデガーはやたらとポジティブだからなのだが。つまり談義できるのは時間に関することだけなのだ。

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posted at 14:36:06

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

たとえば、ショーペンハウアーだと、虚栄心を言い当てていい気になるのだが、ハイデガーだと、感謝を言い当ててほっとするのだ。その違いは潜勢と現勢。つまりアリストテレスの霊魂規定を、葛藤と捉えるか、実践と両親の一元論と捉えるか、という地平の広さのちがいなのだ。器の大きさというか。

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posted at 14:41:17

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

葛藤すると潜勢(二元論)になりネガティブなことばかりが気になり始める。しかし、そうしたカルテジアンのようなものを払拭する器になるとき、ハイデガーのようにやたらとポジティブ(実践とは良心のことだ)という、カント批判になるのだろう。それは潜勢ではなく現勢的である。

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posted at 14:42:55

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

葛藤=潜勢=ネガティブとは、我々=社会が認識を取り決めているという器のこと。それに対して、現勢=ポジティブというのは、我々(社会)より先なること(いわば個人)がある、という予感=先学問性のこと。twitter.com/sunamajiri/sta...

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posted at 14:50:03

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

一重にハイデガーの問題は、社会(我々の取り決め=デカルト的要請)より、先なることがある、という絶対的個人主義のこと。それは社会的に批判されるエゴイストに対する単独者という中途半端なものではない。twitter.com/sunamajiri/sta...

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posted at 14:52:36

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

先日のハイデガーシンポで、ハイデガーが始まりでないと古代哲学者の神崎先生が、葛藤=二元論に対するセム=一元論のハイデガーにおける出現(実践の良心化)といったのは、そういうこと。twitter.com/sunamajiri/sta... つまり葛藤させる社会的取り決めを除去するということ。

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posted at 15:38:32

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

ただ、twitter.com/BeTakada/statu... の「(自己と非自己の分割は)どの時点か」は、地平のことです。「時点」では点時間的な弁証法的時間規定のように眼前(対象)的で、カント書では、超越論的時間地平(問いの時間化→問いを語れること)です。@BeTakada

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posted at 15:49:02

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

端的に、我々=社会が取り決めると、それは対象(延長や眼前)化されてしまうが、それより先であると、非対象性であり、それが語ることだということです。twitter.com/sunamajiri/sta... 丸山文隆氏の立論が語りになっているかは、もうちょっと見極めます。@BeTakada

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posted at 15:54:55

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

やはり、丸山文隆 www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf... で重要なのは、メタ存在論は実存が生起される以前の中立を存在論している、ということです。超越を生起する方法へ懐疑を徹底することです。@BeTakada pic.twitter.com/NglX8MSuQA

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posted at 18:59:40

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

『存在と時間』では現存在は実存として語られる。そのために未完化するのは必然的か、というのがハイデガーの内的必然性問題です。ポスト『存在と時間』である、GA26のメタ存在論=転回とは、方法的懐疑の徹底のことで、実存を生起する超越を、方法化することです。@BeTakada

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posted at 18:59:57

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

『存在と時間』は、弁証法的時間規定では時間は点=無だが、問いを一点にすることである、時間という問いは有だ、という弁証法批判で終結するのだが、それをいうために、メタ存在論に至っていない、それが内的必然性問題です。@BeTakada

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posted at 19:00:33

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

一方、メタ存在論は、実存が生起していない中立を存在論している。それが、カント的企投=存在者の全体、に対する、ハイデガーのカント書の被投性テーゼ=全体における存在者への、内的必然的な転回だ、というのが、www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf... でしょう。@BeTakada

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posted at 19:01:33

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

私から見ると、一般的に認識論的転回から転回することを言語論的転回というのだが、ハイデガーは存在論的差異や被投性のために、存在論的転回を行っている、ということなのです。それは人間を実存化させる超越を生起する方法を、明記することなのです。@BeTakada

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posted at 19:01:50

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

それは、先ほど指摘した、我々が社会的に取り決めること(言語論的転回)の前 twitter.com/sunamajiri/sta... に、超越へ生起する方法がある、という存在論的転回なのです。@BeTakada

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

中立的形而上学、あるいは存在論的中立への転回(メタ存在論)というのは、フッサールは存在論的中立ではない、という批判です。キルケゴールの単独者とブーバーの我と汝と同様、フッサールでは根源規定は自我です。@BeTakada

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posted at 19:03:32

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

なお、丸山文隆氏が中心的に解釈しているGA26-196-202 ライプニッツ講義の補論=転回 を訳注含めてPDFにしておきました。bit.ly/1li8kdn その前後がないと、意味不明な文面なのですが、問題になるのはGA26-199です。@BeTakada

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大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

しかし、やはりこの我々=社会的規約以前に中立であること、というのが超越を生起と語る方法ということなのでしょう。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada

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posted at 19:42:32

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

そうですね、存在論的中立は、デカルトの不徹底で覆われたものですね。しかし、存在論的中立によって析出される世界や超越による生起を、エゴイズムと誤解するのは旧来の形而上学である実在論に属する独我論だ、という箇所です。@BeTakada twitter.com/BeTakada/statu...

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posted at 22:06:52

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

世界入場が出てくる、GA26-238-252 twitter.com/sunamajiri/sta... は、単に実存に対して中立であることが存在論的中立だという箇所で、それを誤解するのが単独者や我と汝関係だ、という自我論のくだらなさを列挙してる箇所です。@BeTakada

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posted at 22:10:43

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

それこそ、形而上学が旧来的だったデカルトの時代なら、それを払拭することが方法だったが、旧来性が払拭された以後、形而上学の地平から捉えないのは、超越を生起させる中立性を方法化しないことだ、ということですからね。要は中立化の方法なわけで。@BeTakada

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posted at 22:49:18

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

コギト・エルゴ・スムではレス(モノ)で、方法化=時間化しないというスピノザですら、ヘーゲル的には時間を空間化させてしまう。その不十分さは、むしろ形而上学的に捉えていないために、中立性の徹底が得られていないためだ、というような。@BeTakada

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posted at 22:56:01

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

GA26-238-252 をPDFにしました bit.ly/1MIQDcO が、面白い箇所ではない。単に中立的でない自我は非自己で、そんなことはつまらない話題なので、時間の方が面白いよ、といっているだけ。なお、世界入場は全集訳語では世界進入。@BeTakada

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posted at 22:59:02

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

なお、GA26-241の我と汝は独我論であるは、GA25カント講義書でもtwitter.com/sunamajiri/sta... 現存在を生起する中立性を妨げるのがデカルト的不徹底の圏域の独我論だ、というのはフッサール批判まで一貫して続く。@BeTakada

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posted at 23:20:01

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年11月10日

丸山文隆論文 www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf... が世界入場を取り上げているのは、逆からいうと、ということです。重要なのは、実存を生起させる方法の中立です。それはメタ存在論からしか得られないのです。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada

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posted at 23:24:41

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