大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年11月25日(水)
それは学的企投してしまえば通俗的時間になり、それは意識の永遠性しか語れない。この学問であることの宿命である霊魂の不滅ということに、最大限抗おうというハイデガーのGA26絶唱部 bit.ly/1OdbIlj は殆ど詩のようです。@BeTakada
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posted at 21:46:48
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ハイデガー全集26巻を読み終えて。そのフッサール批判の鋭さ。永遠は音楽だけのものだったのだ。www.facebook.com/kaoru.ohmoto/p...
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posted at 17:45:40
ハイデガーが相対化しようとする通俗的時間とは、まさにフッサールが前提しているように、永遠に持続する意識を想定した言語ゲームの規則のことだ。それを昔は霊魂の不滅といったのだ。確かにフッサールが言うように音楽にとって意識は永遠の持続だ。しかし、それはただ音楽というだけのことなのだ。
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posted at 17:26:10
フッサールの内的時間意識が地平創造(つまり、他人の奏でた音楽を、メロディーという形象として客観する意識ではなく、自らメロディを構想すること)でないのは、極めて象徴的だ。ハイデガーはここから、超越論的生産的構想力を地平として概念化するカント書の問題に突入する。
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posted at 16:47:06
それはカントでは現象と物自体に二重化する、デカルトを自我と規定するという形而上学が陥る罠だ。対象関係は時間関係からしか物語として存在できないのだ。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 16:44:19
このように言語ゲームを、ルール(根源規定)抜きに語ると、通俗時間が語られてしまう。無がなければ有は語られず、むしろ言語ゲームは無を弁証法してしまう。それはルール抜きの語りだからだ。時間が通俗化するのは、時間に身を任す地平で語っていないからだ。
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posted at 16:37:22
恐らく、過去把持され形象として聞き分けられるメロディー(という知覚)は、予定調和しない。しかしそれは偶然の音楽のことではなく、予定調和は将来から今が脱自的に到来することで、つまり時間に身を任すことで、必然的に逢着する終止形のようなことだ。こうして楽曲は有限な人生のように終止する。
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posted at 16:19:18
人は、形而上学が無限遡行だと信じこむ、しかしそれが言語ゲームを規定する根源だとわかれば、形而上学を等閑視することが、まさに無限な問いの連鎖を生む、というこの指摘は決定的である。「究極的な問いは規定されるべき」GA26-298
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posted at 16:14:59
未来が過去把持による決定論になったり、人間が同一律と数学的に規定されたり、つまり音楽がまさにメロディーとして聴こえるのも、形而上学を非本来的に捉える通俗的な無限遡行だとハイデガーは明言する。 pic.twitter.com/XURkd8UYhq
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posted at 16:11:01
ヴォルフの根拠律「それがむしろ有るのであって無いのではないのか、という根拠なしには、何も無い」を、ショーペンハウアーのように「なぜそれが有るのかの根拠なしには何ものもない」としてしまわないこと。つまり形而上学を度外視してライプニッツの予定調和を短絡的に受け取らないこと。
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posted at 15:49:49
要するに、過去把持を今とする時間規定(メロディーという形象を把持している今)は、そもそも霊魂不滅を公理(前提)とした今という通俗的な時間であり、それでは予定調和も単なる決定論に堕落してしまう。GA26のいう根拠律とは、こうした学的企投より「むしろ」に重点を移すことだ。
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posted at 15:37:19
メノンのパラドックスは、カントの理性をハイデガーにならって構想力(語り)におく坂部恵に啓発された(と注釈で特記している)柄谷行人のトランスクリティークのこの記述 bit.ly/1TdYMeI で差し当たり(柄谷の語り方への批判はさておき)十分だろう。
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posted at 15:05:28
GA26ライプニッツ講義は、本来の明証性に関する講義だ。デカルトの明証性を、ライプニッツは同一律(1+1=2)としてしまう。それに対してハイデガーは明証性とは根拠律だという。それは数学の規則は根源規定により決まるという、プラトンのメノンのパラドックスの解決である。
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posted at 14:54:27
これに対してハイデガーは何といってるのか。それは端的に、過去把持される形象(メロディー)が未来を予定調和させるような、時間をそれ自体で概念化する即自時間、通俗時間までが、学的企投であり、本来の時性はそうした通俗時間にはないということだ。
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posted at 14:50:34
フッサールの内的時間意識の現象学は、先カント書期では、発表された直後であり、GA26でもたったこれ bit.ly/1HlIi2Z だけの言及だ。あとはハイデガーの必死の反論。それだけメロディーは人を動揺させるものなのだ。
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posted at 14:46:18
ハイデガーが批判する内的時間意識とは、端的に言えばだが、メロディーを形象として捉えるかどうか、という逡巡のことなのだが、これはアリストテレスの通俗時間のことだ。なぜならば、霊魂不滅を想起するようなプラトンに対して、アリストテレスはそれは把持された過去にすぎない、と規定するからだ。
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posted at 14:43:09
なぜなら、GA26は、先カント書期で恐らく唯一のフッサールの内的時間批判を、ライプニッツ批判として行うというものだからだ。フッサールの内的時間は、たとえば中山元の日経連載 nkbp.jp/1LyACFr が一般向けだ。
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posted at 14:39:12
ハイデガー『ライプニッツを端緒とする論理学の始原諸根拠』の総括を考えていたが、学的企投できない脱自態、それはどうしても音楽の本質論、いわば音楽現象学にしか見えない。過去が喚起する形象としてのメロディーによる予定調和に対して、未来から到来する形なきメロディーという今への脱自。
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posted at 14:37:43