大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2016年05月20日(金)
その点でもレヴィナスのミスリードが万人受けするね。ハイデガーが死を一般化するのはカテゴリー誤謬だというわけだから。ハイデガーはアリストテレスではカテゴリーではない現実と可能をカテゴリーとしたカントを批判するために、死の可能性に言及するだけだが、死は可能性ではないと言い出したりね。
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posted at 18:43:41
たとえば、ハイデガー以外というと、フロイトでは、暴力ですら、自己が抑圧した無意識の捌け口で実行してしまうことだろうが、ハイデガーでは、カントの崇高と同じで、暴力とは他者が自己に対して発揮する威力のことでしかない。その違いは極めて大きい。
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posted at 12:48:04
ちなみに、《暴力》というと、いかにも自己が自発的にする行為のように連想してしまうのだが、そうではなく、他者が自己に《威力》を発揮することだからこそ、それを《暴力的だ》と概念化しているようなもので、それを見誤らなかったのが、歴史的にハイデガーだけだ、ということが問題なのだ。
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posted at 12:43:20
だとすれば逆に、《暴力》は単純に《他者の威力》と言い換えて差し支えないのだが、従来のハイデガー読解は、柄谷行人のトラクリにおいてもなお、こうした構想力というカントが怖気づいた問題系を、他者の威力と措定することに失敗しているのだ。
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posted at 12:35:08
なお、日本のカント翻訳は《暴力》を《威力》といわば意訳して転倒するのだが、それは暴力とは、まったき他者の存在のことであり、自己が振るう暴力の正反対の意味、つまり他者の威力のことだからなのだが。しかし、ハイデガー以後、それが存在論的暴力という論述の地平になっているということなのだ。
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posted at 12:31:54
ともあれ、今私が、 bit.ly/1TIiBcL で見立てようとしたのは、デリダ的に脱構築すると、ハイデガーのカント書の超越論的図式性だけが、脱構築されずに残る《まったき他者》という論旨。レヴィナスは見誤ってるのだが、ハイデガーを脱構築することはできない。
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posted at 12:27:56