大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2017年01月02日(月)
文学は現実の比喩であっても、たとえば諸学である法律学の現実は、単なる可能世界のようなものだ。そのような弁別ができなくなり奔走することが、どれだけ危機的であるのか。退屈になるとそういうことばかりを考えてしまうのである。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 17:32:00
いずれにせよ、たとえば入試の国語力は、「彼ら」と呼称していた段階から「われわれ」と呼称する「真理前提共同体」に没入する、自然な想念(比喩を真に受けないようなこと)に達することなのだが、今日、この「われわれ」という主語を自然に使うことに、何らかな困難が生じているということのようだ。
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posted at 17:20:49
少し逆行して喋ると、カントの被制作性の暴露、つまり有神論批判としての無神論には意味がない。しかし、そうしたナンセンスがあるからこそ、人間は科学的認識より根本的に退屈な存在ではないのか、という問いが立ち、それが科学的な言葉の比喩性をも暴露してしまう、というようなことだ。
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posted at 17:12:04
もう少し俗っぽく言うと、現実逃避=頽落と言うのは普通宗教のことなのだが、そうした宗教性を帯びるようなことよりも、現実はより根深い日常性を有している、というようなことだと思ってまず間違いがない。ある意味、これが見えなくなるようなことを、言語能力の低下と計量できる、という話なのだ。
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posted at 17:02:51
冒頭に戻れば、現実的事実的日常的であることは、諸科学のような現実逃避的な気晴らしに左右されれないほど、根深い存在なのだ。そのように思いなしできること。それがメタ存在論であるのだが、言語論的転回も、諸科学から分散する名目的な概念を、いちいち真に受けるな、というようなことだ。
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posted at 16:59:22
ハイデガーが主著である『存在と時間』を頓挫して、転回を余儀なくされるのも、それが遠回しな被制作性批判、カント的客観への超越論的批判、あるいは生物論だからだが、そうした実存論は必然的に転回してしまう。なぜなら人間は諸科学が言い当てるより、より根本的に退屈な存在だからだ。
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posted at 16:48:21
根本的に日常が退屈になると、実践などどうでもよくなり、理論をめぐる知性が発達してしまう。その理論知にとっては、実践も諸科学も単なる些末な分散、小さな気晴らし=好奇心にすぎない。そういう小さな好奇心=諸科学では、日常の退屈は言い当てることができない。
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posted at 16:45:26
ところでこれはこういう見取り図のことだ。ハイデガーは哲学の根本気分を退屈だと言い当てたのだが、それはギリシャ人たちが不労所得者で、とにかく退屈していて、実践知(フロネーシス)より理論知を発達させてしまった、ということだ。
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posted at 16:43:11
だからこそ、現実逃避としての気晴らし、レジャー、好奇心としての諸科学という退屈な話(実存論)を超えて、より根本的で超越的な気分、より根本的な退屈からのより根本的な気晴らしへの、言い当て(メタ存在論)の話が充満的になっていく。
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posted at 16:36:25
ここで、常に通奏低音のように繰り返されるのが、人間は常に現実逃避=頽落に駆り立てられているのだが、しかしそういう押し流されるような姿であるよりも、人間はより根本的に退屈な存在だ、という点だ。つまり、現実ほど退屈なものはないが、なかなかそこから逃避できるものでもない。
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posted at 16:34:00
転回元の実存論という気晴らしでは、まだ退屈に至っておらず、人間が免れない死から現実逃避する気晴らしが頽落とされる。しかし、転回するとこれが反転してしまう。死という話題に躓くから、人は生真面目な演説ばかりして、気晴らしもできない。人間はより退屈な存在だ。
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posted at 16:28:06
キルケゴールは死に至る病、つまり躓きの石の話をしたが、ハイデガーは躓かない=転倒しない話、転回とは何かという話をする。メタ存在論に転回すると、先駆的決意性と呼ばれた死の問題群が、いわばどうでもよくなるからだ。twitter.com/database_guide...
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posted at 16:11:12
科学的な発見はエキサイティングな気晴らしだが、日常はより退屈だ。それが不安という根本的な気分なのだが、この退屈という根本的気分に自覚的になると、諸学は単なる気晴らしや分散であり、不安の克服=言い当てには、何一つ役立たないことが見えてくる。
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posted at 16:03:02
しかし、暴露話が本題でないのは明らかだ。私達が科学が解明するような生物体で、神の似姿であるかどうかなど、日常を決定するには不十分だからだ。そこで話をひっくり返してしまおう。しかもそうした転回は必然的なのではないか、という問いが立つ、それがメタ存在論への転回だ。
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posted at 15:56:56
見取り図を示すと、諸科学を日常と思えず、切羽詰まって科学に奔走してしまう頽落というものがある。これがハイデガーでは実存論と呼ばれるのだが、具体的にはカントの言う客観認識は、単に造物主による制作(ポイエーシス)を話題にしていただけだ、という暴露話だと思えば良い。
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posted at 15:54:52
ところで、なぜこうしたメタ存在論への転回の必然性が発見されたのか、という話を紹介してみよう。それを発見したのがハイデガーなのか、というのが常に問題になるのだが、ハイデガーではこういう理路が問題にされているのだ。ちなみに今日ではこうした問題を「動物論」という。
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posted at 15:49:24
さて、メタ存在論への転回、つまり言語論的転回はなぜ必然的なのか、というのが学問論の世界では喧しいのである。それを穿ってみれば、彼らが論理性、つまり現実認識として何を測定しようとしているのかの一端が窺えるというものだ。
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posted at 15:39:32
言語論的転回、メタ存在論への転回の内的必然性、という問題。これは文学のような比喩と同じで、哲学を比喩として読めないと、現実がわからなくなるよ、という問題なのだが、ツイッターを見ていると、そうした現実に直面できない人達がいる。
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posted at 14:52:24