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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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  • 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
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2017年01月29日(日)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月29日

こうしてアルキメデスの点は、学校の通俗性、哲学史という教科の欺瞞を、唯物論という世界観の思い込み、つまり存在者の全体=宇宙に対する外部視点=無限遠点の欺瞞として言い当てていく。形而上学を形而下との二元論とする通俗的批判は、何も触発しない。彼はそう知っていたのだ。

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posted at 19:05:37

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月29日

世界は世界観(イデオロギー)ではない、というハイデガーの世界内存在からみると、今日のグローバリズムにおいて、旧来の学校が目の敵にされているのも容易に理解できる。学校は唯物論というイデオローグ、批判者を生み出してしまうが、それは世界というよりは、思い込みのようなものだからだ。

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posted at 18:44:36

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月29日

学校が通俗化させるものの最たるものが、形而下との二元論という仮象としての形而上学、つまり唯物論というイデオロギーだが、そうした世界観が世界ではない、というハイデガーにとって、学校とは哲学史=批判者の場ではなく、あくまでも存在史=哲学の場、というわけだろう。

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posted at 18:37:28

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月29日

近代社会の中核を担うのが学校だが、しかし学校は存在史を哲学史に捻じ曲げるために、批判者しか生まれてこない。本来は触発されているにも拘らずだ。こういう存在史観をこそ、学校で教えるべきだ、というような話をしているのだろう。

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posted at 18:29:11

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月29日

学校は違いを特徴だけで教える。だから哲学史には存在史がなく、学校は哲学に不向きだ、というハイデガーの学校批判に、触発される人が続出するということなのだが、デリダが触発されたことも隠蔽してしまうのが学校的。学校にかかればすべて批判者だ。哲学史は存在史ではない。

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posted at 18:25:46

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月29日

デリダがハイデガーに触発されたのも、記号論の二元論性=欺瞞の暴露という点だけだが、それを触発したハイデガーはといえば、形而上学を形而下との二元論に通俗化した学校の欺瞞性の暴露だっただけだ。学校は哲学を通俗化させる欺瞞的な装置だから。

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posted at 18:00:16

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月29日

今回まとめたツイートは主に、読解メモという話題なので、一般向けに話題付けられてあること、つまり未読者向けの解説になっていないのだが、解説すれば、二元論を読み込もうとする、あらゆる誤読性の暴露になってるのだろう。二元論が先入観だという。togetter.com/li/1075336

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posted at 17:38:53

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月29日

存在者が、存在者の全体から、全体における存在者となるためには、仮象としての形而上学、形而下との二元論となった学校(学的)形而上学の通俗性を暴くことで、全体としての形而上学に昇格させる。こうしたハイデガーにデリダが批判的だ、という見方があるとすれば、誤解だろうな。

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posted at 17:22:58

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月29日

形而上学も存在者も、どちらも一致してそれで全体とすること、というのが存在論ならば、カントの感性的理性の分析に徹するカント書までは、ヴォルフの学校形而上学、つまり形而上学とは形而下との二元論だ、というままで、全体としての形而上学に昇格していない。

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posted at 17:07:30

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月29日

カント書は、存在と時間にくらべて画期的な語り方をせず、ただひたすらカントの無意識を言い当てる作業に没頭するのだが、それでも形而上学はカントが依拠したヴォルフの学校形而上学のままだ。学校形而上学にとって、全体における存在者、という語り方。それでカントの無意識を言い当てるのだ。

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posted at 17:05:25

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月29日

形而上学は仮象なのか全体なのか。形而上学が全体でないとは、デカルトも含めたすべてのプラトニズム、二元論のことで、それが仮象としての形而上学なのだから、全体における存在者が、全体としての形而上学のことでなくて、どうするというのだ?

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posted at 16:56:04

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月29日

さてこのようにして、カント書までは全体における存在者にとっての異物だった形而上学が、仮象性のない全体としての形而上学になってしまう、ハイデガーの動物論が問題とされる、というのはだんだん読み取れてきた。しかし、形而上学が仮象であることのほうが、よほどまずいだろう。

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posted at 16:52:47

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月29日

カント書までは、形而上学は全体における存在者にとっての異物=仮象という扱い。形而上学批判期=動物論では、形而上学は仮象から全体に昇格。「ハイデガー読解201701 オイディプス時間=仮象とは別の確実性が語る=触発すること」 togetter.com/li/1075336

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posted at 16:50:11

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