大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2017年02月11日(土)
歯医者さんから帰ってきて仮眠のつもりが寝てしまった。冨田カント本を一昨日、熟読了したので、アマゾンレビューでも書いてあげようかなと思っていたが、綺麗に語りが霧散してしまった。本を紹介するというのは醍醐味だが、読了後の距離感が難問。
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posted at 05:29:37
ついハイデガーがブレーメン講演で吐露したように、英語でないとカントの明証必然性や実体の欺瞞を、精確に言い当てることができない。ハイデガーならそれを非本来的形而上学というのだが、冨田カント本では、非本来的論理学といえてしまっている。
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posted at 05:34:40
時間は構成ではなく、超越論の規定は時間を構成する論理にではなく、時間そのものにある。こうしたことをカントは非形而上学的だといってしまうと、あまり論理的に聴こえないのだが、カントにあるのは非論理性だというと、冨田カント本のように、非常に論理明晰に見える。
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posted at 05:36:15
ハイデガーがカント書~形而上学批判で捉えるカントは、非本来的形而上学者なのだが、しかし冨田カント本が捉えるカントは、カントの非論理性なのだ。どちらがより鮮やかであるのかというと、おそらく後者だろう。
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posted at 05:38:09
カントは自然科学を形而上学に見せかけている(冨田)。形而上学とは、存在と存在者の二重襞を問題連関させる第一哲学の二重性(両義性)が隠蔽したものだ(ハイデガー)。
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posted at 05:39:50
これが、カントを現代科学の父と捉えることでみえなくなることだ。カントはロックの必然的仮説(物そのもの)を払拭させる「物自体」によって、蓋然的仮説という現代科学を可能にしたが、しかしそれは単に自然学を形而上学だと粉飾するものだった。そういう話がなされている。
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posted at 05:42:02
実は、ハイデガー自身、カント論の挙げ句の果て、つまり総かり立て体制を論じるに際して、冒頭で、英語こそ語源学に頽落しない優れた哲学だ、と吐露しているのだが、こうしたカントの欺瞞、あるいは非論理性は、英語からしか見て取れない。そのように冨田は哲学している。
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posted at 05:43:35
我々は哲学が何であったのかを、カントの明証必然性によって忘れさせられている。しかし、こうした語り得ぬことは、じつは語らないことではなく、ハイデガーがブレーメン講演冒頭で吐露するように、英語からしか語れないことだったのだ。
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posted at 05:48:38
端的に、デカルトの第一哲学、実体の問題をスピノザに反して、イギリス人が一般観念として語ってしまうのを、カントが一般知性観念、原因にまで波及させて語っていることが、カント自体からは見えづらいということなのだが、こうした自然学を形而上学だと豪語してしまうこと。
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posted at 05:53:22
第一哲学というのは、存在者と存在を問題連関させることで、答えを隠蔽するのだが、こうした第一哲学をデカルトが哲学の規定としてしまったこと。それに対して超越論は時間が規定なのだが、それはカントの非本来的形而上学というより、非論理性として明らかにできる、冨田本はそういう話になっていた。
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posted at 06:01:43
面白いことにフランス人、たとえばデリダなら、デカルトの我の一般名性、つまり個別具体の図式性の欠如態として言い立てるのだが、ロックと比較されたカントは、単にデカルトの第一哲学によって、自然学を形而上学と錯誤した発狂だ。ハイデガーが哲学の規定は時間だと言うまではそうなのだ。
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posted at 06:17:32
三角形のような一般観念のように、原因という純粋知性観念のアプリオリ性を扱ってしまうこと、この論理=時間の歪みが、カントにおいてどのように頽落したか。その鮮やかな軌跡を冨田恭彦カント本は描いているのだが、それがわかりやすいのは時間を論理として語れているためだろう。
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posted at 06:26:48
っと、このようにアマゾンのレビューという体裁、紹介文という体裁から霧散してしまったので、ツイートになってしまった。冨田が図式論は英語哲学からこそ、問題性を暴露するというような話なのだが、話というだけでは紹介文にならないのだ。おそらく絶賛だけで批評的ではないからなのだが。
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posted at 06:30:03
どの本のことですか?というDMをいただいた。この本のことだ。紹介文、つまり書評どころか、キュレーションにもなっていない。それほど強烈ということなのだが。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 06:40:06