大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年05月28日(木)
因果は時間が前提だ、という近代 twitter.com/sunamajiri/sta... 以降、本当に必然より偶然が肯定的 twitter.com/sunamajiri/sta... なのか、というのが常に問題。
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posted at 14:09:41
宿痾としてのアメリカニズム。アメリカ人が因果の縁に落ちるのは、現実を空想のように捉えて、現象を想像する西欧文明の本来の感性から逃走し、空想としての現実に走るならまだしも、下手すりゃ仏教に逃げこむからよね。最もたちの悪いイデオローグ。bit.ly/1EyVp8s
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posted at 14:54:37
2015年05月29日(金)
2015年05月30日(土)
(ドゥルーズの「超越論的なモノの単数性」に対する)デリダの「超越論的なモノの複数性」という「図式」については、それって「透明な散文の雑文性」の「図式」とも重なるんじゃ、という気もするし、文脈を整頓すれば、「散文とは、超越論的なものの複数性の場である」と無茶な事も言えるのかも(?)
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posted at 19:42:07
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posted at xx:xx:xx
デッドレターの話、そうなんだろうが、批評がフロイトで唯物論を延命するのに対して、カント書のハイデガーにある観念論の完遂、という二者間での対話に見えるね。フロイトでは象徴だ。しかしハイデガーでは観念は時間だ。twitter.com/Consav455/stat...
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posted at 20:46:26
批評がフロイト的な象徴化に陥るのに対して、非批評的で非象徴的な何かがあり、それに対して、批評が断絶しているという話でしかない気がする。象徴化というのはたいてい、そういうものだ。
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posted at 20:50:45
2015年05月31日(日)
超感性的なもの、つまり音楽の話から、文学のアンチロマンという話に転じると、日本にあるのはフロイディアンロマンしかない。これもカントに対する転倒。つまり単なるロマン主義。これに自覚的でない日本の文学評論は極めてやばい。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 03:25:50
音楽にある文学的なしがらみはロマン派ぐらいなのだが、文学の話で言うと、日本では評論家がフロイディアンの父性、実作家は息子のようなファミリーロマンに陥っている。転移はあるだろうが、転移では象徴しかない。これはカント~現象学の転回に対する単純な誤謬。
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posted at 03:30:26
日本で実存主義以降の評論家が、文学を哲学と思い、フランス経由のフロイディアンロマンの象徴性だけを語るのだが、フロイトでは転移と象徴がある。しかし、カント~ハイデガーの実存には象徴がない。この違いを文学から発見できない哲学的な言葉遊びに意味があるわけがない。
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posted at 03:38:09
その点は柄谷というより、日本の文学テクストの問題なんだろうね。たしかにド・マンはハイデガーの時間性に忠実だが、柄谷はどこからか退却している。もはやアンチハイデガーなことばかり語らされている。あれが不思議だ。@Consav455 日本の文芸評論家ではなく、ド・マンが
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posted at 08:04:16
神から時間へ。たとえ文学修辞と哲学の垣根が脱構築されても、それは文学テクストが神から時間を志向するからだろう。他方、聖書のような文学を持たないところで修辞言語を批評しても、精神分析すら単純に時間から神へ因果律へ遡行してしまいそうだ。単純に、そういう倒錯しかない気がする。
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posted at 11:04:26
ハイデガーの観念論性をいったのはここ twitter.com/sunamajiri/sta... でだが、息子を奪回した昭和が象徴となった時、娘は神隠しにあうのだ。デッドレターというのは、こうしたアンチミステリーの修辞のようなものであり、それは精神分析の神、つまり分析家の喪失のようなものだ。
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posted at 11:17:24