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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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  • 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
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2015年10月22日(木)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月22日

デカルトに引き寄せれば、ハイデガーが追求しているのは、懐疑の徹底の一点ね。それをアリストテレスのニコマコス倫理学の実践性=形式的告示という方法的懐疑に確定する作業が初期ハイデガー。形式的告示とは、形式(論理学)ではない、実践的予感のこと。@inja650rr @BeTakada

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posted at 01:40:38

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月22日

中世神学では述部は真とか一とか等価交換で同語反復的なのだが、実践的にはそれに収まらない意味がある。その意味を取り出すためには、意味は形式的な論理学ではなく、実践的な予感に告示(予示)されている、という方法的懐疑の、ニコマコス倫理学的な徹底が図られている。@inja650rr

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posted at 01:44:22

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月22日

超越範疇はたかが同語反復的(無限後退)なものなので、そのうちの根源(超越論的規定というのだが)を規定してしまう。そうすると同語反復の問題が終結して、意味が発生する、そういうことをやろうとしている。それが方法的懐疑のハイデガー的な徹底なのだ。@inja650rr

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posted at 01:47:35

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月22日

逆説すると、超越論的規定がないと、超越範疇の等価交換という無限後退が発生してしまう。しかしそうした形式的な矛盾は実践的には何も役に立たない、それが少なくとも中世までの神学の問題なので、ハイデガーは、超越論的規定を問うことで、無限後退を完全に終わらせてしまった。@inja650rr

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posted at 01:51:50

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月22日

重要なのは、形式(論理学)に対する、形式的告示(予示)の実践性。形式的だと無限後退するのだが、後者の実践には無限後退などないので、それをどう言い表すのか、ということだけが焦点になっている。初期ハイデガーが批判する新カント派までは、その問題が残存していたのだ。@inja650rr

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posted at 01:59:10

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月22日

うちのコロンビア大など、アイヴィーリーグは、学部一年生にみっちりニコマコス倫理学をやらせるのだが、簡単にいえば、範疇や形式は先入観のようなもので、それに対する実践的な事柄にしか、言語化できることがない、ということなのだ。@inja650rr

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posted at 02:06:35

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月22日

ハイデガーで何が問題かというと、範疇や形式といった理論知に対する実践知(フロネーシス)を、ハイデガーだけが完全に拡張できてしまった、という一点なのだ。twitter.com/sunamajiri/sta... @inja650rr

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posted at 02:09:04

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月22日

ニコマコス倫理学的実践性をハイデガーが取り入れて、それを現象学的還元より強力な形式的告示とする、というのは斎藤元紀氏が大好きな話だが、要するにニコマコス倫理学というのは、政治は数学的に話せないという一点なのだ。@inja650rr pic.twitter.com/PlMU0d4LqC

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posted at 02:13:15

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月22日

実践的行為、つまり当為が目的となる、というのが方法的懐疑なのだが、現象学的還元で様相性を払拭するだけでも、純粋自我という無限後退が回避できず不十分なので、形式的告示とすることで、意識と良心という二元論の一致、という倫理学の根本問題が解決したことになるのだ。@inja650rr

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posted at 02:30:38

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月22日

この実践の良心への一元化(形式化)という当たり前のことが、形式的に理解できないのは、二元論を形式的に捉えているからで、形式的告示とは二元論(良心とそれに反する意識といった)を形式と捉えないことなのだ。twitter.com/sunamajiri/sta... @inja650rr

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posted at 02:35:13

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月22日

私たちはつい二元論を形式的に捉えてしまうため、実践や行為が萎縮してしまう。ハイデガーの形式的告示というのは、二元論は形式でない、という予感のことなのだが、そのことで行為の目的が形式化される。twitter.com/sunamajiri/sta...

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posted at 02:53:11

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月22日

それは端的に、実践(フロネーシス)の良心(目的)への時間的な一致という形式のことなのだが、形式性とはこのように時間的であり、原因と結果のような二元論は、だからこそ形式的には時間的であるとは、言えないのである。twitter.com/sunamajiri/sta...

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posted at 02:57:05

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月22日

ところで、GA61『アリストテレスの現象学的解釈』講義は、範疇は超越範疇といえども実践的ではなく、根源のみが実践的だ、という議論になっている。途中で大学だけが哲学の場だというのは、それを根源と規定するには安定した場が必要だからだ。twitter.com/sunamajiri/sta...

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posted at 03:01:35

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月22日

実践的でないこととしての形式は範疇化される。カントでは範疇論は図式論で疑問にふされるが、それでも実践的には不十分だ(根源化されない)。ハイデガーの場合、形式一般を告示(予示)とすることで、実存範疇が語られるのだが、GA61では、生の範疇化(頽落)という具体的な由来が語られている。

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posted at 03:08:13

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月22日

カントで範疇論が頓挫するため、ヘーゲル的な形式論理学は時間を超越範疇にしてしまうが、ハイデガーの実存範疇からは、時間性は超越範疇ではなく、あくまでも根源規定として語られることになる。超越範疇は実践を形式化できない。超越論的根源規定だけが実践を問題にしている。

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posted at 03:20:31

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月22日

まったくそのとおりでしょう。ハイデガーが問うているのは、それを実践的にどのように共有するか、という部分のようなものなので、ハイデガーを形而上学と捉えるのは、もっとも劣悪な誤読の一つです。@inja650rr その内の漏神通とは形而上学の回避だったように僕は思うのです。

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posted at 03:26:53

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月22日

ただし、それは帰納的という形式的な問題ではなく、ハイデガーがニコマコス倫理学に遡っていうように、形式的告示=形式を予感する実践、あるいは気分という問題なのでしょう。@inja650rr 御釈迦様の無記の言い伝えが帰納的に正しければ、また彼の教えも無限後退を終わらせたと思います。

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posted at 03:29:34

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月22日

引き寄せて言えば、無記(形而上学を退けること)というのは、帰納や演繹という推論の問題、つまり形式上の問題ではないのです。もっというと、形式が形而上学なので、それは予感するぐらいが関の山ということです。しかし予感を形式的に打ち消すことが出来ないのです。@inja650rr

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posted at 03:33:14

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月22日

問題は、それを打ち消す推論に頽落することです。ハイデガーの場合は、そうした推論に陥る形式論理学のようなものを、形而上学として解体する厳密性を要請しているだけなのだが、しかしそれは端的に実践ということです。憶測と実践ほど遠く掛け離れたものはない。@inja650rr

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posted at 03:51:33

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月22日

その点で、やはり一番気になるのは、その無記を帰納できるという形式的推論だね。たしかに、仏教は師を解体しない教えである点で権威的だが、それを形式的にしか語れないというのは頽落そのもの、しかしそうであるとは思えない。@inja650rr 御釈迦様の無記の言い伝えが帰納的に正しければ、

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posted at 04:23:48

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月22日

ちなみに、物理学者は存在論的と思い込み、それが哲学者には認識論的である twitter.com/sunamajiri/sta... というのは、要するに一言で言えば、両者ともヘーゲリアン的に規定されたお喋りをしていて、ハイデガリアン的に規定されていない、というだけに見えるのであった。

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posted at 06:53:27

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月22日

観測問題も時間を点時間と規定する心理問題のようになっていて、当然それは実際の観測ではないから、小澤の方程式のように観測上解決されてしまうという。さらに、量子力学の情報性という話になるのだが、しかしそれでも、いわば非点的な時間規定という現象は記述されないという。

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posted at 06:59:20

隠者(阿羅漢 周利槃特) @inja650rr

15年10月22日

@sunamajiri モヤモヤした命題は前提が分からない以上数学的に解を求めるということは出来ないということですね。

モヤモヤしたした形而上の世界についてついつい考えたくなってしまうこと。
それが「形式的告示」という理解でよろしいものでしょうか?

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posted at 16:29:54

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月22日

釈迦への帰依は君のように形式的にしか語れない超権威のようなものだ。それが無記や境地が無限後退の形式だからだ。私が問題にするハイデガーは無記ではなく、言表の当為の形式、つまり実践を問題にしているのだ。実践というのは帰依と正反対の解体。帰依を問題にしてはならない。@inja650rr

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posted at 23:39:56

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月22日

ハイデガーが告示を形式的に語るから分かりづらいのだが、気分や形式的告示や予感であるというのは、数学や形式論理学のように形式的に目的を求めず、非形式的な予感のまま当為や実践、つまり目的を遂げることで、取り越し苦労はやめよう、といったような判明な意識のこと。@inja650rr

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posted at 23:44:29

隠者(阿羅漢 周利槃特) @inja650rr

15年10月22日

@sunamajiri おっしゃる通りです。私は御釈迦様を愛していますが帰依はしていません。何故なら御釈迦様自身が超権力というものにすがる事で現存在が頽落に堕ちる事を悟っていたように思うからです。
後半部分は全く持って仰る通りです。

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posted at 23:45:21

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月22日

ハイデガーの形式批判、あるいは非形式的予感である形式的告示というのは、端的に判明であることなのだが、それが非常に文脈的に読み取りづらいという問題は、ハイデガーの書き方というより、受容の問題。とくに日本の戦前には文脈的に判明だった受容が戦後に分断している問題。@inja650rr

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posted at 23:47:30

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月22日

先日のシンポでゲストの大橋先生が、ハイデガーが批判した戦前の新カント派についてスピーチしたが、戦前まで日本で判明だったものが、戦後の英米化で判明でなくなった、という趣旨を明言してる文を発見した。repository.cc.sophia.ac.jp/dspace/bitstre... @inja650rr

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posted at 23:53:30

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月22日

戦後日本では深層とか仏教思想とか帰依の問題に干上がるのだが、ハイデガーが批判している文脈が今不明瞭に感じるのは、戦後の英米化でハイデガー的非形式が形式のように見えてしまうからなのだ。大橋先生もこう書いておられる。@inja650rr pic.twitter.com/aDDwnrSmZt

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posted at 23:58:39

2015年10月23日(金)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

ハイデガーはこの新カント派の解体者として歴史的なのだが(ナチズムによって新カント派が一掃されるということと一致しているのだが)、日本でも西田幾多郎は新カント派の心理学を批判しているのだ。それが戦後に伝承しきれず、有耶無耶になっているという問題があるのだ。@inja650rr

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posted at 00:04:21

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

対する英米思想というのは、ハイデガーが排除した形式性(存在証明的な無限遡行)なのだ。それが戦後に流入したので、戦後の日本では記号論から深層心理学に陥ったり、ハイデガーが解体した形式性が復活してしまったのだ。戦前に戻ろうというのは、思想史的には正しいのだ。@inja650rr

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posted at 00:07:45

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

深層心理学はさらにポスト構造主義の脱構築の問題などにいたり(オイディプスや象徴化の形式的な問題)、それが80年代ニューアカとなって飽和したとき、オウムのような超権威への帰依という形式問題が日本では顕在化したのは、記憶に新しいところなのだ。@inja650rr

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posted at 00:10:04

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

ハイデガーは、深層の形式性を退け、感謝や愛という問題を語るとき、その非形式性、あるいは当為や実践、つまり形式的に目的を捉えニヒリズムや終末論に陥るのではなく、それこそ量子論的に、不確定な未来という非形式的な目的を、現在に把捉する方法的懐疑を記述しているのだ。@inja650rr

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posted at 00:11:57

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

ただし、その記述が非常に読みづらく感じられるのは、超越論性=批判哲学として語っているからで、批判されている当のものが、日本では特に戦後に伝承されていないので、ハイデガーのいう非形式性が非常に読みづらく、形式性のように誤解されるのだ。@inja650rr

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posted at 00:14:28

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

なので、端的にハイデガーが読めているというのは、それを形式性の破れ、あるいは非形式性として、ちゃんと受け取れている一部の人に限られるという問題が生じているのだ。それが現代ではある種の権威主義になっているのは否めず、それをもう一度解体する必要が生じているのだ。@inja650rr

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posted at 00:15:52

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

戦後、ハイデガーの超越論的批判の批判対象が伝承されていないことで、一部の人しかハイデガーの非形式性を理解できない権威化が生じているとはいえ、それを釈迦への帰依という形式的な超権威と混同することを、たとえば柄谷批判などによって、私は常々批判しているだけなのだ。@inja650rr

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posted at 00:19:19

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

超権威が形式的なのは、それが伝承の破れだからなのだ。それをデカルト的な通用問題に対する伝達問題と私が常々批判していることなのだ。批判や批判対象が正確に伝達されずに通用しなくなったコトバは、帰依の対象のようになってしまうのだろう。@inja650rr

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posted at 00:21:11

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

デカルト的な通用性の問題では通用しない、伝承の不備、つまり超権威化によって何が起るかというと、非形式性のようなもの、実践的なもの、当為のようなもの、それが喪失されるという事態なのだ。それを私は大袈裟でも何でもなく、一義的に憂いているのだ。@inja650rr

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posted at 00:22:59

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

端的にハイデガーはそのこと、つまり方法的懐疑の徹底だけを正確無比に記述しているので、その精確性から逸脱するのはかなり危険。戦前戦後問わず、日本でも仏教者が修行のように読むものになっているのもそのためだろう。@inja650rr 私は御釈迦様を愛していますが帰依はしていません。

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posted at 00:32:36

隠者(阿羅漢 周利槃特) @inja650rr

15年10月23日

@sunamajiri 理解に自信があまりないのですが…

作者の死や思想史の空白により伝承が途切れ
言葉から本来の定義が抜け落ちる。
そして時の権威により形式的に再定義され伝えられる(告示される)

こうして伝わってきたものが「形式的告示」である…という理解で宜しいでしょうか?

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posted at 00:38:55

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

その理解は悪く無い。ただ形式的告示というのは書かれた当のものが、非形式的な予感(気分)を自覚的に書いている(予示)ということなので、その自覚性を隠蔽するのが権威が用いる形式性である、という理解の方が自覚的で良いと思う。予示を隠蔽するのが権威。@inja650rr

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posted at 00:45:01

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

たとえば、ありてあるとか、我思う故に我ありとか、そこに光あれといったらあるとか、そういう存在というのは、実在性のことではなく、無自覚が目的を先取りする惑乱のようなものに対して、自覚しているから予示を明言できるという意味。@inja650rr

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posted at 00:52:24

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

ちなみに存在とは言明の勇気のようなものだが、勇気のいる表明とは愛の表明のことだからだからね。私は釈迦にもキリストにもさほど愛を表明しないのだが、愛というのは宗教心とは違い、愛されることの明確さだからかもしれない。釈迦に愛されるのなら私も対等に愛を語るだろうが。@inja650rr

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posted at 01:54:17

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

だからこそ、表明とか言表とか明言というのは、判明な意識のこと。不確定な量子論的確率論的な未来を予示というのは、どうなるかわからないで怯えることではなく、勇気を振り絞って未来に対すること。そうした表明性は、君の言う無記と同じで、無限遡行のことではない。@inja650rr

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posted at 02:06:15

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

ちなみに存在とは言明の勇気のようなものだが、勇気のいる表明とは愛の表明のことだからね。私は釈迦にもキリストにもさほど愛を表明しないのだが、愛というのは宗教心とは違い、愛されることの明確さだからかもしれない。釈迦に愛されるのなら私も対等に愛を語るだろうが。@inja650rr

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posted at 02:06:55

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

ところで、シンポで大橋容一郎氏 twitter.com/sunamajiri/sta... が語った、ハイデガーや西田が批判した当のものとは、戦後に有耶無耶になった新カント派のスピリチュアリズム=唯心論的形而上学。心の中に物の実在性を語る形而上学を批判できるかという問題。@inja650rr

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posted at 02:07:27

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

つまり、端的に表明する勇気のことである存在とは、心の中の実在性という無限遡行や形而上学に陥ることなく、その内向的なものを超越する、ということなのだ。しかし、なぜそんな簡単なことが、晦渋に叙述される必要があるのかを、精確に捉えなければならない。@inja650rr

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posted at 02:43:15

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

戦前の新カント派が途絶えるのは、ハイデガーが解体したからでも、ナチズムの台頭で大学が荒廃したからでもない。心的実在という実在性が、外的実在に対抗して、主観として捉えられていたからだ。そこでは存在論、つまり心的ではない実在に対する勇気がタブーとされていたのだ。@inja650rr

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posted at 02:47:23

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

心的実在というのが、新カント派のいう認識論=心理学だったのだ。しかし、端的に心的実在が無限遡行なのだ。それを批判するためには、カントの批判哲学、つまり超越論の規定が命題化するのだ。だから存在論は超越論的規定だけを問題とする。それは勇気のための規定といえる。@inja650rr

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posted at 02:51:56

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

まとめれば、存在とは表明する勇気だが、それは心的実在という形而上学に無限遡行しない勇気のことなのだ。しかし、勇気は規定抜きには表明できないのだ。勇気で表明されるのは心的実在に無限遡行しない愛のことだが、それには超越論的規定が要請されているのだ。@inja650rr

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posted at 02:54:49

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

それはこう言い換えることができる。論理学や数学が非本来的な形式のままでは、心的実在への無限遡行という心理学と全く同じ地平にある。それが非超越論的地平、あるいは非本来的な形式なのだ。未来が不確定なように、心的実在=心理学や非本来的地平からは、未来は把捉されない。@inja650rr

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posted at 03:01:50

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

ハイデガーの懐疑方法である形式的告示は形式ではないのだが、逆説すればそれは非本来的形式ではなく、本来的形式のことなのだ。同じように、論理学や心理学という新カント派の地平は、非本来的地平であり、非超越論的地平、つまり非時間的超越論的規定であるのだ。@inja650rr

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posted at 03:03:55

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

このように、今日スピリチュアリズムとしてしか伝承されていない、新カント派の論理学・心理学という地平が、非時間的であるとして、ハイデガーによって解体されたのだ。だからこそ、それは心的実在という無限遡行ではない。@inja650rr

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posted at 03:05:03

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

現代の地平はどうだろうか。それが心的実在や深層心理学を主観性として語り、形式性を客観性として語るのだとすれば、それはハイデガーが問題にしたように、極めて危険な非本来的な地平なのだ。心的実在こそ無限遡行や形而上学であり、そこに頽落しない地平が要請されているのだ。@inja650rr

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posted at 03:14:23

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

それは批判哲学=超越論哲学としてしか問題にできない。心的実在に頽落しない規則の規定は、批判からしか生まれないからだ。よって、本来の形式が形式的告示(予示)としてしか有り得ないというのは、超越論の規定も時間的にしか有り得ないということだ。@inja650rr

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posted at 03:20:31

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

このように、形式的告示(予示)という自覚性は、本来的形式性のことで、それが予示であるように、極めて時間的な自覚性だ、ということがお分かりになったかと思う。端的に非本来的形式とは、非・無時間的な規定による形式、非動力学的論理規定ということであるに過ぎない。@inja650rr

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posted at 03:22:08

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

最も実際的に重要なのは、無時間的論理規定という非本来的な形式性では、あらゆる無限遡行が生じてしまうということだ。それが心的実在や、弁証法的時間規定や、ゼノンのパラドックスなのだ。したがってそれは形式性ではなく非本来的形式性なのだ。@inja650rr

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posted at 03:23:57

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

ハイデガーが(戦前末期のカント書で最後に)いう超越論的時間地平というのは、そうした非本来的形式性を批判する本来の地平のことで、実際的には永遠時間や終末論やニヒリズムの克服のことなのだ。それを一言で言えば勇気や愛ということもできよう。@inja650rr

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posted at 03:26:37

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

ハイデガーシンポの報告を一般化してツイートすることが出来ない。それは一部のハイデガリアンしか、ハイデガーが批判した当のものを周知としていないという状況、あるいは事情によるのだ。twitter.com/sunamajiri/sta...

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posted at 03:57:19

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

たとえば、ハイデガーの指導教官であるリッカートに対して、同じくリッカートの弟子であるラスクから、ハイデガーがいかにリッカートを批判できたか、ということなどが各論としてシンポジウムでは話題になったわけだが、そういうことを報告しても、誰も文脈を周知していないからだ。

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posted at 03:59:02

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

ハイデガーはリッカートをラスクから批判し、有意味性の存在論に到達した、という話なのだが、より一般化すると、心的実在を形而上学する唯心論者を、超越論哲学によって批判すると、時間という問題、存在は時間、あるいは時間は存在だ、という意味論が出てくると捉えることも出来る。

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posted at 04:02:47

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

こうした有意味性の存在論は、ヤスパースの限界状況(死の問題)から、時間を有限性へ規定し直す超越論的時間地平への道が開けるが、それを単なる実存状況、あるいは境地のように語ることに対して、ハイデガーは黙する、ということも問題だ。端的に自分の限界状況=死は語れないからだ。

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posted at 04:06:49

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

しかし、実存論以上に、シンポジウムでは司会者であった斎藤元紀氏の「始まりのハイデガー」観が重要だ。ハイデガーの方法的懐疑は、様相性(可能性)を現象学的還元する以上に、フロネーシス(実践)を形式的告示(当為)と捉えることだからだ。

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posted at 04:13:23

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

その点では、斎藤氏が司会した第一部で、始まりのハイデガー観に疑問を呈した古代哲学者の神崎繁氏の発表があまりにも重要だ。アリストテレスのフロネーシスを、ハイデガーが中世以来始めて、良心にまで拡張した、という議論だからだ。twitter.com/sunamajiri/sta...

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posted at 04:15:59

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

つまり、ハイデガーはアリストテレス的な実践(フロネーシス)を、形式的告示という当為によって、良心に拡張したことになるのだが、そのためにはストア派への言及が、意識的に回避・排除されている、というのが神崎繁氏の始まりのハイデガー観への批判であった。

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posted at 04:18:10

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

始まりのハイデガーが意図的に排除するストア派というのは、デカルト以後ではスピノザの問題であるが、レヴィナス~ザラデル的には旧約、あるいはセムの問題であり、ハイデガーでは現勢的霊魂規定、神崎繁氏の言い方では振幅型葛藤の霊魂規定、というアリストテレスの規定の仕方だ。

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posted at 04:22:22

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

実践を現勢的に規定するという問題は、二元論的な葛藤(心身二元論)を形式として自明化することなく、形式的告示(予感)として自覚するということを意味する。twitter.com/sunamajiri/sta...

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posted at 04:26:47

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

ところで、ハイデガーが旧約やセム、あるいはスピノザやストア派、もっというと現勢的霊魂規定や振幅型葛藤、あるいは一元論を形式として自明化せず、二元論を自覚的に形式的告示とするのは、セム的一元論の形式性を言明するためだとも言える。一元論は自明的ではなく、言明される本来的な形式なのだ。

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posted at 04:29:48

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

こうした本来的な形式を隠蔽するものが、第二部で新カント派を総括した大橋容一郎氏の語る、唯心論・心的実在の形而上学、スピリチュアリズムなのだ。twitter.com/sunamajiri/sta... つまりスピリチュアリズムは一元論の本来的形式性を損なう(無限後退な)のだ。

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posted at 04:32:37

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

このように、ハイデガーはスピリチュアリズム、あるいは神秘主義、心的実在という形而上学を徹底的に根絶するために、心的実在論者=認識論者がタブーとした存在論に、始まりのハイデガーから向かうことになる。それが二元論を自明化しない、形式的告示という方法的懐疑なのだ。

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posted at 04:40:40

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

方法的懐疑が、初期フライブルク期(前主著期)に、実践の脱神学化として顕れ、それが形式的告示という方法となり、実践の良心化に向かう途上で、主著期以後、それが脱弁証法的時間、あるいは超越論的地平を発見する、唯一の途だったのだろう。twitter.com/sunamajiri/sta...

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posted at 04:46:12

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

感想を述べれば、それは、歴史化された新約に対して、旧約やセムや一元論の非歴史性を再形式化すること、言明という実践の時熟的な遂行歴史のようであり、もはや終末や歴史の次の段階に、人間の言明=存在が及んだ、という出来事であったように見える。

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posted at 04:50:33

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

カント書に付録のダヴォース論争で、ハイデガーと対峙するカッシーラーの弟子を論じた米のヒラリー・パトナム twitter.com/sunamajiri/sta... は量子論の観測問題で有名だが、ユダヤ教徒の信仰告白をするハーヴァード講義で、ヘーゲルを批判して時間と歴史の違いを力説していた。

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posted at 05:03:48

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

忘れてはいけないのだが、歴史とは新約のことであり、時間とは旧約のことなのだ。歴史の非時間性、時間の非歴史性を論証するために、彼らが量子論に到るまで、どれだけのものを費やしているのかに、我々日本人の疎さのようなものは、まったく通用しないのである。

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posted at 05:04:48

隠者(阿羅漢 周利槃特) @inja650rr

15年10月23日

本当に同意です!死から逃げるために形而上学に逃げるという事は頽落に堕ちた生き方であると思います。真理は遠ざかるばかりです。
形而上学を回避しながら追究をしていくこと
それこそが「先駆的決意性」というものであると僕は理解をしました twitter.com/sunamajiri/sta...

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posted at 14:03:34

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

要するに浮つくな、という迷いを断ち切ることを、どう方法的に語るのか、ということだからね。落ち着けということなんだが。それは心的実在や深層や唯識にあるのではなく、もっと現勢的、表層的、瞬間的、機会的というだけなのよね。心のなかに実在がある、というのが迷いだから。@inja650rr

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posted at 22:59:10

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

今朝FBで書いたけどね。www.facebook.com/kaoru.ohmoto/p... 「中世神学では神は存在証明の問題だが、デカルト以後はそれの放棄なので、神は証明されずとも存在していることになるのだ。それは心の中に神が実在するのではない、という重大な問題なのだ。」@inja650rr

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posted at 23:05:26

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

不幸なのは端的に、日本ではなぜか西欧が中世神学的な西欧という固定観念が強くて、そこから抜け出せないあらゆる妄想が噴出してしまうことなのよね。現代の日本人が、異様に迷いに陥るのは、ほとんどそのことなんではないかと思えるほどなのだ。@inja650rr

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posted at 23:07:12

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

それもまだ混乱しているのだが、端的に日本では敗戦後、心的実在や深層心理学や唯識を記号論的に形式的に語ることが大流行になるのだが、あれはスピリチュアリズムだからね。ハイデガーの言うような形式的告示にはなってないよね。中世神学の殻に戻るようなことなのだろう。@inja650rr

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posted at 23:14:59

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

ちなみに、戦前のハイデガーが批判した心的実在論が、現代ではスピリチュアリズムとして語られることだ、という時のスピリチュアリズムって、たとえばいまRTしたようなことも一例なんだけどね。おわかりとおもうが。twitter.com/lakudagoya/sta... @inja650rr

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posted at 23:20:24

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年10月23日

それはそのとおり、ハイデガーは形式への懐疑の全容を語ろうとしているのだが、見て見ぬふりをしたくなるのよね。今朝のFBの冒頭でもちらっと触れているのだが。www.facebook.com/kaoru.ohmoto/p... @inja650rr 形式的告示を見て見なかったふりをする事形式的な語り

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posted at 23:22:54

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