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2011年08月18日(木)

まあ本人が お盆休みと言ってることだし 今週一週間 時々話しながら 様子をみよう というか猶予を設けよう それで戻るか 行くのやめるか 自分でいろいろ考えるだろうよ
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posted at 22:28:27

同じ本で、佐々木中さん「サイプレス上野くんの立場に共感する事がよくある」って書いてました。ぐっと中上賢次が身近な存在になったなーRT“@spare2450013: あの曲最高に良いよね〜 RT @chiba1980bsy: 佐々木中が鬼さんの「小名浜」聴いて「たぶん中上賢次も”
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posted at 18:35:05

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というように見受けられます。その証拠に、彼の書く文章は異様に文体や語彙にこだわりがありますし。これは単なるナルシ君じゃなくて、「文学・思想のえらさ」を取り戻そうとするあたりゅんの戦略における一つの戦術なんだろうと思っています。『神話が考える』の人の批評は、この戦略的目標を
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posted at 12:55:08

意味があると思います。いまどき、ありがたがって読まれるのはエコノミストや社会学者の分析であって、哲学書はむしろ怪訝な目でみられる。早い話「えらい」のは「経済とか社会」であって「哲学」はえらくない。しかるに、あたりゅんの戦略は「文学・思想ってカッコいいよね」という信仰を取り戻す
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posted at 12:53:33

「自己の自己に対する関係」のために、シチリアの僭主に助言したのか、という転倒した話になってしまいますし…まあ、でもこう長々と論じてきましたけど、僕はあたりゅんの戦略は大好きで、「価値あることを言うから文学」なんじゃなくて「文学だから価値があるんだ」というような彼の物言いは
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posted at 12:51:29

読めなくもないような議論をフーコーは展開していますので。「パレーシアとは真実の言表において自らを自己自身に結びつけ、また自らを自由に自己自身に結びつける一つの『方途』であり、しかもそれは勇気ある行為という形で行われるのです」(GSA)。まあ、この議論は強引で、そうするとプラトンは
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posted at 12:49:06

パレーシア的言表が主体に遡及的に効果を及ぼす、ということを問題としています。(が、さすがにラカンと前未来と同じ、と言うわけにはいきません。自己の自己へのある関係=自己の開かれを可能にするためにのみ、この挑発的言表、ある人はパレーシアを行使していたのだ。つまり、パレーシア=道具と
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posted at 12:46:44

している箇所をあたりゅんは引いているにも関わらずスルーしています。つまり、ラカンのいう「前未来」、この第三者が主体を形成する、っていう発想自体が分かっていなかったようにもみえます。あたりゅんがこの本を書いたときには出版されていなかった『自己と他者の統治』はまさにこの
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posted at 12:43:12

その三人称(第三者かな。春樹的には「うなぎさん」)に引きずられる形で話し、聞かれ、話し終えたときには「あ、私ってこういうこと考えてたんだよ」と、自分の記憶が遡及的に構成される。この第三者を軸に動く言説が、主体に及ぼす効果ってやつだと思います。フーコーがまさにこの点でラカンに同意
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posted at 12:40:34

もう一つすっ飛ばされているのは、たっちーこと内田樹が良く引くラカンの「前未来形で語る」というラカンの議論です。たっちーによると、人は「出来合いのこと」を話すのではなければ、二者間の話の内容を動かしているのは、私でもあなたでもなく、「私が『思う』あなたの聞きたいこと」です(三人称)
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posted at 12:37:37

何がわかっていたかと言うと、「何も終わんない」ということを。つまり、あたりゅんはテクストを内在的に読む、ということをほとんどしていませんよね、ってことでした(まあ、そういうと「フーコー教団」の一員と見なされてたたかれるんでしょうけど。教団って全部悪いんですかね?)
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posted at 12:33:23

「論証のために使われている」という印象があります。前期の言及は無い、統治性あたりから、晩年の「自己への配慮」論は確実に、フーコーの「逃走」であり、もちろん失敗だという。フーコー(それもドゥルーズが偉いというフーコー)への目配せ程度に、逃走するフーコーはパフォーマティブにわかってた
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posted at 12:28:12

こういう初期フーコーの作品に対する言及はほぼ無い。一応の理由としては、「フーコーの精神分析批判が見られるのは中期あたりからだから」、というのが挙げられるでしょうが、もちろんそれも下記の作品群に陰に陽に見られます。結局、あたりゅんにとってフーコーは読まれているのではなくて、
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posted at 12:24:18

だから本の締めくくりに、フーコーの『ドゥルーズ』を持ってきて、ほぼ全てドゥルーズ=フーコーとして、二人の違いはまるで無いことになっている。よくわからないのは、ここで展開される議論(可視性と言表、ダイアグラム)に一番いいのは『言葉と物』、『知の考古学』、「外の思考」などなんですが
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posted at 12:21:47

なんで、問題構成化に関する議論を引かなかったんだろうか?フーコーは明確に「問題構成化とは各自各様の独創的な解答からなる」と言っていますし。想像するに(つまり根拠がないですが)、あたりゅんのフーコー理解はかなりの部分ドゥルーズに基づいているのではないでしょうか。
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posted at 12:18:33

あたりゅんにおいては忘れられている。あたりゅんは「ありがたい解答」だけ求めてしまっている。(まあ、立てた問いが「精神分析ってどうよ」ですから、フーコーの「答え」のみに着目してしまうのも無理はないですが)あたりゅんが「創造」の遍在、ある意味、凡庸さ、可能性を追求しているんだったら、
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posted at 12:17:11

ちゃんと見えている。のちのちに私たちのカラダは皆一人残らず昔話になってしまう。もしくはくたばったヤツが負けのゲーム。負けは負けだった。長い目で見たなら、全員が負けていた。それでも私たちは失意のうちワクワクもしている。
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posted at 11:16:10

アメヤが地方に行って、ずいぶんいっしょにいられなかったからなあ。現在、ちび、アメヤにくっついて寝ています。アメヤが寝返りうって、離れると、転がって、またくっつくw。
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posted at 09:25:13

園長せんせい、いい人でよかった。お父さんと、すごすのも大事だかね。両親がものすごく忙しくなると、子どももわかって、自然と通うようになるものよ。子どもって、ばかじゃないのよと。
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posted at 09:21:20

ちびが、保育園、つまんないから、もう行きたくない、ときっぱりと断言。ぎゃーー、困る。アメヤと、1日中、遊んだ夜のこと。やっぱ、自由ってことかなあ・・。とりあえず、園長せんせいと話して、お父さんが見れるうちは、少しやすんで、様子をみようとなった。
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posted at 09:17:21

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そうだった 6年前の8月 ヒルズのすぐ近く Pハウスの箱の中で 毎日セミの声を聞いていて あ 子供育てようと思ったんだっけ あんな場所で 繁殖していくセミに あのとき不思議なものを 感じたんだっけ
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posted at 02:16:59

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自分の番に関していえば自分の心の傷口を開くような心持ちで臨みました。が、歪みの捉え方が間違ったのかイベントタイトル通りなにも癒えることがありませんでした。この意味ではもしかすると主催の貝つぶ氏の意に沿った行為ができたかもしれません。ともかくも有意義であったことには確かです。
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posted at 01:13:19