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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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  • 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
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2017年03月25日(土)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月25日

個人の内心は自由なのだろうか? いや現実の人間はもっと謙虚なはずだ。そういう極限の負い目から頽落し、現実逃避した西欧人がかつて、霊魂の不滅を語ったのだ。そうした非本来的なものを批判するハイデガーを誤読すると、形而上学に何が復活してしまうのか、戦後はそれが明らかな時代だ。

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posted at 21:18:47

2017年03月26日(日)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

カントの言っていることは簡単です。ストローソンをはじめイギリス人は、カントはそれを試行錯誤したが、やはり感性論にとどまり、実体の一性に頽落したとみるが、ハイデガーなら、いやカントはそのことが分かっているから、一性から超越した、というのです。@BeTakada

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posted at 01:34:32

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

まずヴォルフ~メイヤーという、旧来の一般論理学では概念結合で、それでは時空は感性論的に一性なので、そうしたアプリオリから超越する超越論的論理学では、一般性は概念上の問題になるというだけです。そこではもはやスピノザのような実体の一性がないのです。@BeTakada

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posted at 01:34:57

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

結局、概念の論理学では、感性論=一性となるのだが、そうした形式性には内実(対象性)がない。内実=実在に超越するには、図式論のように、一性=一般性を概念上に置き直し、知覚の予科から経験の類推をすれば、観念論論駁すら付随的になる。@BeTakada

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posted at 01:38:30

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

オックスフォードカント学のストローソンも、途中まではハイデガーと同じように、カントの分析論を解釈するが、途中から雲行きが怪しくなる。一性で語り始めてしまうのです。ハイデガーはカントにはそれがない、というのです。@BeTakada

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posted at 01:39:20

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

それというのも、ヴォルフといえば形而上学が非本来的なわけです。本来的形而上学とは超感覚、つまり感覚では捉えられない対象自体を云々すること、つまり形式的判断=陳述(ロゴス)の外、他者に関するものだからです。そうハイデガーは形而上学を本来化する(GM-59)。@BeTakada

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posted at 01:42:00

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

対象を感覚=判断できない。対象に関しては陳述できないのです。一方、物自体とかアプリオリというのは、そうした現象ならざるものについては、判断や感覚ができないことです。そう一括しておかないと、ロックのように原子論、つまり古典科学をはじめてしまうからです。@BeTakada

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posted at 01:45:27

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

巷では、超越の俗説が横行するんです。超越というとアプリオリや物自体や他者に、陳述が超越すること、というように頽落してしまうのだが、ハイデガーはカントを正確に解釈し、そうした言葉遊びから、飛躍することをカントの超越論的論理性だ、と言い直すのです。@BeTakada

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posted at 01:49:34

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

一般論理学にとっては、感性論(純粋直観である時空)は、スピノザと同じ実体の一性です。しかし、そうした言葉遊び(概念結合)というアプリオリから超越することである、超越論的論理学にとっては時空とは、図式論(一般概念)のことです。そこには一性がないのです。@BeTakada

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posted at 01:51:35

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

だから、ハイデガーはGA41『物への問い』で、カントの超越論的原則論を、感性論=一性という形式論理学、つまりアプリオリから、経験である内実=実在への超越として、超越論をバージョンアップするのです。ハイデガーのGA41はカント論の必読文献です。@BeTakada

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posted at 01:54:25

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

一性がないこと、これが客観です。主観的には感性論的に時空は一性、実体だが、それでは客観的時間規定ではない。そこで感性論から図式論へのバージョンアップが必要で、カントの原則論はこの図式論の後なので、感性論に頽落する読みは、すべて失敗作なのです。@BeTakada

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posted at 01:58:10

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

カントの時代の術語、悟性と感性は、今の時代でも問題になる一般と個別のことです。そしてカントが克服した問題は、旧来の論理学(形式)では、個別を捉えられない(客観できない)ということです。すべてが一性に回収される言葉遊びが、一般概念であるはずがない、わけです。@BeTakada

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posted at 02:07:02

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

カントをニュートン的という読みに対して、ハイデガーが鋭く批判的なのは、旧来の論理学(陳述の仕方)、たとえばユークリッド幾何学は、それ自体は完結しているが、何も意味=超越しないからです。陳述の外の実在を切り捨ててしまう。@BeTakada

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posted at 02:13:15

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

旧来の論理学(陳述)は何も意味をなさない。何も超越しない。なぜなら時空が一性・実体的だからで、そうした感性論から超越・脱却する図式論こそが、カントをニュートン的な絶対時空から解き放つ、原則論の主題だ、とハイデガーなら言うのです。@BeTakada

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posted at 02:14:38

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

さらに、偶然や必然という様相についても、実在の様相(不在や実在)ではなく、旧来の陳述では、形式が内実を捉えていない不在なので、実在へ超越する論理の可能性や現実性のカテゴリーのことだ、と旧来の読みを全て一蹴してGA41のカント論は閉じているのです。@BeTakada

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posted at 02:35:53

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

一言で言えば言葉遊びはやめなさいということです。どうせ感覚に基づく旧来の判断論では、他人の痛みなど不可知のままだ。だったらそういう形式に論理性があると認めること自体、やめてしまえばいい。そういう超越の真性が、問題にされている、ということのようです。@BeTakada

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posted at 02:36:13

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

冒頭で、どうも素朴な日本人はイギリス人に騙されやすいといったのも、超越とは一性からの超越であるにも拘らず、イギリス人はカント注解のつもりで、つい一性=形式論理学に遡行してしまい、彼らだけ幽閉されてしまうからです。そこから超越=脱却すればいいだけの話です。@BeTakada

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posted at 02:36:35

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

興味深いのは、何故か日本人は超越というと、一性(デカルトの神でもスピノザの神でも)への超越と思いたがるのだが、ハイデガーが言うように、一性が取り零した内実、つまり実在性へと超越する脱却が、そうした本来の超越であり、西欧人はそれを存在忘却していた、というわけです。@BeTakada

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posted at 02:40:24

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

このように単純バカ批判なわけです。カントの純粋という術語は、神でも何でも空の表象=語彙が単純にあることです。概念同士が結合すると、別な大層な表層を生じてしまう。そうした未経験の表象を批判しているわけです。@BeTakada

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posted at 17:26:27

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月26日

むしろ純粋ではなく単純と邦訳すべきだ。だから、純粋理性批判というと大仰だが、単純バカ批判といえば、誰でも嚥下できるはず。このように概念結合による未経験な単純な表象、つまり一性から目を醒ますようなこと、そういうことを超越と言っていると言っても過言ではないでしょう。@BeTakada

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posted at 17:28:12

2017年03月28日(火)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月28日

哲学は喩え話を駆使するのだ。たとえば時間と因果律を峻別するカントの図式論の喩えが、現実の100円と想像上の100円は、どちらも増減のない同じ数値だという按配なら、今度は想像から現実への飛躍が真価だ、というわけのわからない比喩が出回り、どこから喩え話なのかが、わからなくなる病気。

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posted at 01:09:53

2017年03月29日(水)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月29日

新装版なんかでるのね。改訳もあるの?(^-^)/ 実体概念と関数概念 【新装版】――認識批判の基本的諸問題の研究 エルンスト・カッシーラー (著), 山本 義隆 (翻訳) 2017/4/11発売www.amazon.co.jp/dp/4622086042/...

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posted at 11:56:44

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月29日

駿台物理の山本義隆は読めるがハイデガーは読めないという人がいるのよね。amzn.to/2mOh6oS 「英米墺系の論理実証系の科学哲学がチャチに思えるほど。翻訳者が人文系の哲学の先生だとカッシーラーの思考と種類が違いすぎて、うまくいっていないような気がする」

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posted at 12:03:00

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月29日

ハイデガーとカッシーラーのダヴォス討論が、なぜか日本では全共闘で駿台物理学文学の山本義隆と、その他大勢のチャチな論理実証主義的英米分析哲学のように、話題が頽落しているのが、非常に閉塞感ね。たかだか、一性(同一性)の内実=実在という演繹にすぎないものを、幻想しすぎ。

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posted at 12:25:56

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月29日

うちの周りにも、山本義隆のあの文体はへんてこだが、あれは嚥下できる。それに対して、ハイデガーの邦訳だけは、どうしても引っ掛かってしまって、日本語として読めないという、現代文講師がいたのよね。あれは一体何なんだ? つねにそれを解明しようとしているのだが。

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posted at 12:26:10

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月29日

カッシーラーとハイデガーの対立は、図式論をめぐるものだ。超越論的演繹は、超越論の内実は可能か、という演繹で、論理の内実としての実在である対象への超越、つまり客観はオブジェクトレベルの感性論(時間)ではなく、図式論(メタレベル)の時間による、というような話なのだろう。

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posted at 12:58:12

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月29日

これによって、一性の在り処が明確化される。デカルトでは霊魂概念は一性との差異性なのだろう。しかし一性、つまり一つの意識というのは、不可知論とは対照的に、予め一貫してぶれない意識のことだ。それが図式論によって可能になるというのは、おそらく正しい。

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posted at 12:58:49

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月29日

ダヴォス討論の写真を見ていると、カッシーラーのほうが生意気に見えるのだが、こうしたハイデガーのぶれない意識、一貫性、統覚というものが、カッシーラーには甚だ生意気に見えたのだろう。www.amazon.co.jp/gp/product/067...

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posted at 13:01:12

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月29日

何も臆して動揺することのない意識、無限後退すら怖れない一貫した懐疑。これが一性、同一性、統覚、一つの意識だが、それに動揺すると一性は実体化してしまう。彼らが一貫して懐疑しているのは、たかだか有限なデカルトの霊魂概念、つまり実体としての意識なのだが、そこで臆してしまわないこと。

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posted at 13:05:16

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月29日

このようにブレない意識、つまり迷いから解放された意識が、モータリティーだということ。一という数字が実体の一性と、そうではないものとして概念化する際に生じる、不死性というものにとらわれない、そうした迷いのない意識。そのことが彼らには大問題なのだ。

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posted at 13:08:56

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月29日

たとえば、ショーペンハウアーが、書物の仕方を俗っぽく分類して、予め分かった上で書くこと=説明と、書きながら分かろうとして挫折することを範疇化させたわけだが、一性=同一性=統覚とは、このように予め一貫した認識の上でなされる、説明の妙、鋭さのことなのだ。

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posted at 13:13:49

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月29日

人は、書きながら、何か認識を得ることはない。つまり言葉遊びは何も認識させない。そうした概念分析から超越すること。それを綜合というなら、綜合をアプリオリにしてしまうこと。つまり分かった上で述べること。そのことだけが問題だ。

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posted at 13:15:22

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月29日

だから、ハイデガーはカントの演繹論に、説明を見出すのだ。たとえば、カントは説明に不満足を表明しているだけだ、などという。要は、分かっていることを説明できないで不満だ、ということなのだ。いわゆる説明下手ということなのだが、それを分かっていない、とか認識不足と言ってはならない。

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posted at 13:18:44

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月29日

ツイートまとめ(^-^)/ ブレない意識=統覚は、どんな迷いの克服なのか? www.facebook.com/kaoru.ohmoto/p...

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posted at 13:29:41

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年3月29日

アプリオリって単純に、分かった上で喋ること、という話=綜合に対する先後系列のことで、それ以上でも以下でもないわけだからね〜。@LitoSnowfield 偶然に今朝に“分かる分かっていない”問題 (アプリオリ問題)を考えてむ〜む〜唸ってました(*^o^)>あはは

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posted at 22:25:57

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