大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年04月12日(木)
国語で自然VS労働と教えると、自立という女性的強迫観念ほど学問を新卒採用に同一視しちゃって誤答する子が出てくるt.co/sCueqBYm のだが、こういうリストラとかあの子たちはどう捉えてるんだろう? ソニー1万人リストラt.co/JA27k4IQ
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posted at 21:30:11
日本の従来の国語教育というのは近代を脱封建制として読むt.co/v5rkOKyW のが、目を瞑っていても正解なわけだが、近代=自然=労働を、躓いて就職と思い込む女性的感性というのは、国語教育の可能性に拍車かける源泉ね。 t.co/snCI277x
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posted at 21:37:20
差異の呪い憑かれた男(^-^)/ QT: 俺は変わり続ける必要がある。それは呪いみたいなもんだ。('マイルス・オン・マイルス:マイルス・デイヴィス インタヴュー選集' p463)
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posted at 23:27:48
2012年04月13日(金)
『スピノザの方法』の手頃なレジュメ。そうそう、分かってる人には単に分かってる。(^-^)/「ここまで言うのを我慢していたけれど(國分)、ほぼこれは「悟り」に近い。」 RT: 國分功一郎スピノザ入門第1回 その5 『知性改善論』の方法論 t.co/VLfTiWX9
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posted at 02:07:00
分からないというある種の疎外や二元論を一々例えば心身と実体的に表象するのが近代であるのではない。自然=神こそ近代だ、というスピノザの方法を通じた問題。t.co/HRTogCFV
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posted at 02:08:33
よく纏まっている。「スピノザを否定した近代=説得の論理=明晰判明=真理の公共性→つまり、共有できるものだけが真理」VS「スピノザは分かる+分かることが分かる」(^-^)/ 國分功一郎スピノザ入門第1回 その5 『知性改善論』の方法論 t.co/VLfTiWX9
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posted at 02:17:04
t.co/topNqbBS この「分かる+分かることが分かる」という私的な悟りのようなものを、あえて他人と共有する必要があるのかとか、他人も同様に分かってると踏まえるべきなのか、というのが、したがって問われる。私はスピノザ同様、他人も分かっていると感じる。
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posted at 02:30:06
他人はわかっていないはずだというこの問の立て方自体が極めて近代的だ。また自由意志2.0が言及するGoogleの汎知主義も、その点では何ら分かっていないことになってしまう。それがスピノザ的な「分かることを分かる」と認めない(共有しない)ビジネスなら、誰も自由を感じないというだけだ。
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posted at 02:37:36
つまり、他人は分かっていないはずだ、という認識の枠組み自体、平たく言えば上から目線とか情報格差と呼ばれる差異の捏造こそ、そろそろ無理がある。なぜ他人が分かっていないと独り善がりに思い込むことが出来るのだろう? これが近代という問いだ。
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posted at 02:44:39
国民国家であれ啓蒙であれ、全ては相手を差別的に見下す原理でしかない。そこにはいくらあがいても論理性は微塵もない。たとえば教育も、分かっていないはずがないと踏まえてこそ、はじめて言葉が通じるようになる。この点を履き違えた認識は全て「分かっていない」。
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posted at 02:46:01
2012年04月14日(土)
自分が誰であるかとかアイデンティティーなんて、それこそスピノザの方法ではないが、デカルトがいわば教会を説得するために体系を(自己の)存在証明に歪めた結果でしかないわけだしねー。(^-^)/ t.co/LnzHDBqk
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posted at 23:40:20
フォロワーの読解塾の生徒さんとの授業で、上野千鶴子のアイデンティティー論(たしか近代の同一性は多様化しても同一性がある)を解答させつつ、私がツイッターとかSNSで遊んでるのはアイデンティティーの解消なのよねー、といってニンマリモードになった(^-^)/
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posted at 23:44:28
2012年04月15日(日)
國分氏の第四章。授業の合間に少し読み始めた。デカルト『諸根拠』の定義だけそのままに、スピノザがデカルトの「定理にならない要請(読者へのお願い)」を削除して、デカルトの(自己)存在の証明から、神の証明に、再体系化するという話。(^-^)/
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posted at 00:07:44
自己という存在の証明なんかしてまた愚にもつかない擬人法に陥ってるなら、さっさと他の証明しろよ、というスピノザの再定理化の話。超越論(定理で体系化できない評論)の授業ばかりやってると、やはり体系化は気持ち良い。
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posted at 00:09:31
これだけ超越論より体系化の方が気持ち良いと、んじゃ一丁体系化してみるかね、という気持ちになるww 大体常識的に考えても、アイデンティティーとか自己とか、糞近代化で悩んでいなければ、普通に体系的というだけ。何が分からないで体系が崩れるのかなんて自明なので、体系的に脱超越論しようw
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posted at 00:13:49
このように、超越論が体系化の反対語なら、自己とは体系化できないものの総称というだけだ。近代化なんて確定記述すれば、それは体系化できない自己の超越論だ、というだけ。したがって、国語の問題はほとんどこれだけ。
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posted at 00:17:49
おお、酒盛り音楽家は神乞いの地面の音楽に聴こえる。私もコーラで飛ぶよーw @mizuki_muzika うちは身内に1人DJがいて、音楽をすげーまじめにやってる。でもクラブ行っても酒は飲まない。タバコも吸わない。コーラだけ飲んでる。バンド仲間は、酒ガンガンのんでライブやってるけど
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posted at 01:27:05
音楽でも酒盛りは地に落ちるからだめなのよー、神乞いしてる人間になって、神になれなくなるのよお酒って(たぶん、飲めないから想像だけど)(^-^)/ @toyozakishatyou たしかに。今、酔っ払ってるなあ(笑)。
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posted at 01:43:10
というか、村上春樹って、体系狙いの作家なんだけどね。分かりやすいわけでもないし。でも体系化のどっかに躓いたようにみえる。自覚的なのか無自覚なのか、いまいち見えづらいけど。つまり、分かりづらいけど。(^-^)/
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posted at 02:10:56
そのエチカに至る道でスピノザは『デカルトの哲学原理』で、『省察』の第二反論への答弁の『幾何学的様式~諸根拠』で、デカルトにとって(?)自明でないsumを、自明的に扱ったと、国分氏は立論してるのかな? sum=自己存在だけを基準に再体系化するという話のようで。@femmelets
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posted at 14:35:15
荘園解体の武士以降は物乞いや収奪が美徳になったから、後ろめたい隠す心情が上下関わらず組織原理になってますよね(^-^)/ RT @LitoSnowfield 以前に伺った「武士=盗賊」を思い出しました“それでもだからこそ都合の悪い…”
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posted at 17:06:58
そう聞くと、ハイデガーの存在なる言い方は、益々何らかな撞着みたいにきこえる。RT @femmelets デカルトは多産な自然学をもたらしたがフッサールはそうではないという点でしょうね。スピノザとハイデガーの対比はより困難です。ハイデガーの哲学史はスピノザにほとんど触れません。
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posted at 17:10:06
実体vs非実体、人vs神、自己vs他者という術語をどう駆使しても何か正反対な気がしますね~RT @femmelets 木村敏が~、ハイデガーにおいては存在は超越的である(存在者に対して超越であるという意味です)~が、もし彼が正しければ、スピノザの神・自然・実体とは違うということ~
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posted at 20:17:13
そう思えます。RT @femmelets 仮に存在を実体、存在者を様態に対応させようとしても、私の理解、記憶が正しければスピノザの実体は様態を離れて自存するものでも超越的なものでもなかったはずです。そういう意味でハイデガーの存在論はスピノザとは異質なのではないでしょうか。
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posted at 20:18:19
前にもやりましたが、司馬遼太郎が大本営は日本の精神性に起源がないという意味のこと言ってたわけですが、武士道なる収奪の物乞いを美化しすぎなわけです。ビジネス書も同様のたちの悪いナルシズム言説ですから、日本の組織は掌握が簡単なのです。@LitoSnowfield ビジネス書の怪しさは
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posted at 20:36:09
2012年04月16日(月)
ぜひ読んでみて。このスピノザ論が困難とするなら、それはそれこそ一概に言っても意味ないことなんです、もはや体系化としか言いようがない。先ほどの自明は、デカルトにとっては自明でもスピノザにとっては自明でない、よってスピノザは再定式化した、という意味で論じられます@femmelets
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posted at 00:35:52
スピノザはデカルトを批判して、神と一言も言わないように実体とも一言も言わない。ただデカルトの神証明に付随する要請(読者へのお願い)を全部削除して、デカルトの定義に基づいて、もっと正確に再定式化できるだろう、ということにしか興味が無いみたいです。@femmelets
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posted at 00:41:42
圧倒的な差異があるみたいですね。國分氏は「観念の原因を実在に求めない」と「観念と実在の因果関係、つまりアプリオリな神存在証明では説得されないというデカルトの執着に徹底して無関心になること」と第二部総括に書いてますね。分かることが分かるとはそういうことらしい。@femmelets
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posted at 00:54:54
國分によると、デカルトのような「神によって明晰判明な観念の正しさを保証する」ということをスピノザは回避しようとしている、らしいですね。@femmelets 明晰・判明な(または「十全な」)観念を知性が形成することと真偽性や存在・実在は別なのではないかと思うのが普通ではないかと~
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posted at 01:10:30
よって暴論すると、デカルトの観念が神という表象に保証されていただけと仮定するなら、確かにそれ(神)抜きでスピノザが、コギト命題から再体系化したいという気持ちはわからんでもない。どの実在も神というフィルターで見えていただけで、自然が見えてたわけではないのね、とかいう話(^-^)/
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posted at 01:23:34
人VS自然(=神)という対立項を読解枠にすると意外と見えづらいのだが、神VS自然という、ごく平たい対立項で読むと、たとえ実在に原因のある表象であれ、明晰判明さであれ、無限遡行の回避であれ、それほど修行が必要な悟りには思えなくなる。(^-^)/
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posted at 01:26:31
哲学プロパーでないのが幸いだから平たく言うと、神という用語を禁句にした現代哲学は、哲学の不可能性でしかない、とかそういう話しにも見える。いいのよ神だ神だっていっておけば、減るものじゃないしww (^-^)/
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posted at 01:32:41
なんで関心があるかというと、哲学という学科のない高校生に大学にはない国語という学科のゲームのルールを教える時、神という用語ほど読解枠として不可欠なものはないからなんだが。それを隠蔽するとたぶん正解はヤブの中になる。だからといって神が何かは勿論問うてはいない。
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posted at 01:34:40
したがって、もし現代哲学が、スピノザが言うように、神に保証を求めたデカルトの誤読で「神」という術語を禁忌にしただけの言説とするなら、それはそれで面白い文学として読めるな、というだけの話ではある。
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posted at 01:37:50
(読書メモ)より要約すると、デカルトにとってコギトも神証明も単に論述の順序つまり様式の差異でしかない。それはゲルーの指摘するとおりだが、スピノザにとってそれは様式の問題ではなく体系化の問題であった。・・・・有意味に要約するのが極めて困難な箇所だった。(・_・;)
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posted at 08:15:37
ちなみに國分論ではエチカは殆ど立論と論証に出てきません。そのためか、まるで神という語彙をスピノザが使っていなかったという奇妙な印象になりますが、國分氏の実証では、それがテクスト的事実のようです。RT @femmelets 存在論的なステータスが違うのではないかということですが~
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posted at 15:32:42
うーむ、指導してる受験生にはよく言うんだが、勉強も学問も楽しまなきゃ無意味だからねー、彼らは私の目には楽しそうに見える。どんなことも楽しめてないときは方向違いなんですよ、スピノザの知性改善論ではないけど。(^-^)/ @femmelets
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posted at 16:23:32
t.co/RyP1e8he カントは数学を総合、現代数学は分析。デカルトは総合で神、分析で我。スピノザは総合でも我といった。という國分氏の論述を読んでたとこだった。t.co/IGx8hAsx
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posted at 18:23:07