大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年05月15日(火)
ジャズでは、よく The try ということがいわれる。これは字義通り、新曲を演奏するためのこころみを云うのだが、この The try が、彼らジャズマンにとって、もっとも充足した瞬間であるし、これをみごとにやりおおせるということが誇りだ。その誇りが彼らの人生を形づくって行く。
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posted at 08:31:48
永遠に恒常なものの価値に(スピノザの幼稚さ、同じくデカルトの幼稚さを見よ)、最も短命にして無常なものの価値を、生という蛇の腹に輝く誘惑的な黄金の閃光を、対立せしめること- -権力への意志-
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posted at 11:11:53
しかし、経験的に思っていない時も思っている我の思いとは何だろうか。スピノザはそれを神の属性にするのだが、その神は実は何も思っていなかったりする。何しろ自己原因であるのだから。
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posted at 16:14:17
では自己原因とは何だろうか。ハイデガー式にいえば循環論であり、そしてスピノザの対極とされるフィヒテなどは循環論の権化でもある。しかし、そういうことはどうして可能になるのか。ここでもまた物神性の問題が顔を覗かせたりする。
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posted at 16:18:59
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2012年05月16日(水)
(読書)エチカの太陽の刺激の例は、実はデカルトが起源で、この点はほとんど論じられたことがないという。太陽の熱さを知覚しても、科学的な太陽の大きさや距離が判明になるわけではない。だから、所与の真、与えられた観念は、定義上の真偽が判明な幾何学でなければならない。
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posted at 04:42:38
(読書)要するに、言葉即神という幾何学を想定せず、神即自然と発想する読みこそ、実はスピノザのテクスト自体に存在しない、何か妄想的な要素なのだ、という國分氏の読み、朝のこの時間にふさわしい爽やかさだ。
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posted at 04:59:32
(読書)ところで、日本のスピノザ受容。日本の近代性は思惟する自我の輸入と言われるわけだが、スピノザのテクスト自体と対比すると、そうしたデカルト的な要素は、西欧化より以前から日本にないわけではない。神即自然はアニミズム的であり、ないのは言語即神のようなユダヤ文学的な要素だ。
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posted at 05:15:05
(読書)スピノザとの対比で明らかになるのは言語即神とは異質な、自然即神を思惟する自我が、西欧化で輸入された近代性ではないという点だ。むしろ自然即神が日本では先鋭化してしまい、言語即神という読みが中途半端になるため、つねにデカルト的な西欧を、自我性として憧れてしまうのかもしれない。
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posted at 05:20:39
■ツイートまとめ日記■「スピノザ幾何学の爽やかな朝(^-^)/」t.co/syYEcsTy スピノザを神即自然と読むと、幾何学としての言語が歪んで受容される。日本の西欧化でことさら言われる自我性も、実はそうした歪んだ幾何学が原因?という自分用ツイート切り抜き帳です。
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posted at 05:59:37
世界はまず二元性として(二元論的に)我々の前に現れている。しかし認識行為がそれを統一性(一元論的)に作り上げる。この基本原理から出発する哲学は、一元論哲学又は一元論と呼ばれる。この立場の対極に二つの世界の理論又は二元論が向かい立っている。-自由の哲学-
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posted at 06:36:51
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2012年05月18日(金)
有名人になったら逃れられず超人として十字架にかけられかねない。だからみんな超人=有名人にならないよう、必死に隠遁生活をしている。それに対して、超人が何か優れた自我のことと妄想できる自我論者にとっては、超人とは自己顕示欲のことだ。(^-^)/
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posted at 01:04:18
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最近、朝は隔日で音楽とスピノザを往還する。昨日今日は音楽だったのだが、朝だけ読む國分氏スピノザの方法を少し。神がテクスト内にある言語の幾何学性とは何か? あるいは神を排除した非明示的なテクスト性という反証について・・・・。 t.co/DPhKtJPM
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posted at 12:11:05
(読書)あらゆるテクスト論は、テクスト中の命題や語彙が、テクスト内の何を指すのかという論であるべきだが、前項では、所与の真という観念が、デカルトのように太陽の知覚ではなく(非十全な観念)、幾何学という真理が明晰判明なものを指示対象としていることが、検証された。
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posted at 12:13:31
(読書)t.co/DPhKtJPM の項では、エチカという方法では説明するが、知性改善論では説明しないものが、知性であると、指示論証される。自己原因は知性を説明しない。知性を説明するのは方法であり、それは方法論とは異なる。ゆえに方法が十全な観念だ、という指示関係。
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posted at 12:17:42
(読書)知性を説明するのは、自己原因ではなく、真理のある幾何学的な説明であり、それが十全な観念という指示関係。説明=言語は幾何学的でなければ、神を含むことができない。それ以外の説明では、単に神が(テクストの)外部にあることになる。
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posted at 12:20:10
(読書)このいわば(スピノザに対する)テクスト論的転回は面白い(ただし國分氏のテクスト論は、やや循環論的で、その検証は後日に譲る)。なぜなら、テクスト内に実在する語彙(方法や幾何学や神)が、テクスト内で何を指し示しているのかを、厳密に有意味化できるからだ。
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posted at 12:27:34
(読書)極論すると、それはテクストから「神」という語彙が排除や非明示化される経緯をも反証するに過ぎない。神という語彙が言説から排除されるのは、単に先行するテクスト内部の神という語彙の、指示内容を誤読することでしか可能にならない(と思える)からだ。
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posted at 12:32:41
(読書)しかし、こうしたテクスト論(テクスト内での厳密な指示対象読み)は、「歴史的」な説明とは異なり、解釈学的であり、私のテクスト読みのスピードが、この20年で著しく劣化していることを突きつけてしまう。だから、とても頭にきているのだがw しかしただ読む分には面白い。(^-^)/
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posted at 12:37:09
ということで、読書ツイート終わり。アイスを食べてから離脱準備に入る。明日は週末で読解塾なのが憂鬱。なんか最近、テクストを命題化するのが、つまらなくなってしまい、他の遊びを増やしたい(^-^)/
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posted at 12:38:14
スピノザはどんな問題かというと、いわば煩悩の話。様々な欲望に苦しむスピノザは、ある気づきが欲望とも折り合ってしまう。それを他人に解説しようと知性改善論を書くが、その過程でデカルトとは異なり、厳密な幾何学で神を表現することでしか、それを他人に説明できないと気づいてしまう。そんな話
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posted at 12:51:50
KoichiroKOKUBUN國分功一郎 @lethal_notion
プルーストを論じていたドゥルーズが最後にベケットを論じたこと、疲労と消尽を区別して、疲労は実現が尽くされたに過ぎないが、消尽は可能性が尽くされてしまっていると述べたことが重要だと思う。可能性はもう無いんだ、と。スピノザも希望をディスってた。希望には未来についての誤った表象がある。
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posted at 21:37:35
2012年05月20日(日)
若い哲学論文に何か病理がある気がして読んでる。たとえば國分氏は相似の論証が連続するが、前までの論証との差異が明示的ではない。これは柄谷行人の断言体とはどこか正反対だ。あれ?またそれ?今までの論証と何が違うの?が明示的でない? t.co/wizp1ok4
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posted at 00:14:34
そのために、Evenoteに命題をメモりながら精読しないと、論述自体を見失う。画像は第六章読了時のノート。幾何学は真偽のある虚構だが神は虚構ではないとした知性改善論は、個物と神を同列定義するエチカの方法になっているか?という問。 t.co/cUZEKAVz
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posted at 00:17:51
つづいて國分第7章冒頭。エチカは著者名を含む論述の外部を必要としない匿名的テクストだ。から始まり、知性改善論では定義で(神の存在を)証明しようとしていたが、エチカ冒頭の定義は証明が不要な神の命名だ、という趣旨。 t.co/j5rJL66K
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posted at 00:21:40
指をざっくり切ってしまった荷物は、じつは河出の思想体系全集を2千円(ゴミみたいな値段)で落札した荷物だったのだが、和訳低本の畠中訳ではない、高桑訳のエチカ冒頭の定義の翻訳は、凄まじいことになっている(・_・;) t.co/Qu3H80Cz
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posted at 00:28:18
國分本の同箇所は、畠中訳+國分訳かはまだ確認していないが、ちょっと違う。いずれにせよ、知性改善論の定義と異なり、エチカでは定義は用語の命名(凡例)で、証明が不要だ。 t.co/gKehg00E
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posted at 00:30:54
個人的には、1)日本のスピノザ受容(訳出と言説化)、2)ポスト東というか國分氏の世代の哲学論の文体に直感する、何らかな病理の解明に動機づけられて、国語読解としてテクストを読んでいる。
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posted at 00:32:10
今日の読解は、行き帰りの30分ずつの電車で、1時間足らずの読解だったけど、ちょうど第七章に移行した時に、証明がどっかいって、命名に変わった、言語論的転回を通過した気分だった。
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posted at 00:33:04
スピノザみたいに2回破門されちゃうわよーwww それにしてもアメリカは文学やエンタメから大統領演説まで信仰告白なのに対して、私達ってなぜか無信仰潔癖告白の文学になりそうなのよねー(^-^)/ @femmelets @slitsandfrills
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posted at 01:28:49
なんか↓の対話、信仰者を説得(共有)することに腐心したデカルトに対して、スピノザが「分かることを分かる」を共有しようとせず、言語論的な転回(言葉の定義)だけになったというのと、無神論者が無神論を、他者と共有したいというのは、メビウスの輪の表裏みたいに感じた。(・_・;)
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posted at 02:49:19
信じるという問題は、多分社会的ということなのだろうが、社会的でない私はいまいち分からない話。信仰者でも無神論者でもない気がしているのも、そこが原因なのね。何も他者と共有したがらないという点で。よくわらんが(・_・;)
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posted at 02:53:02
ピアノに向かって作られた曲、ペンで考えながら作った曲。内なる耳だけで作られた曲。これらはそれぞれ全く異なったものであるに違いない。そして、全く異なった印象を与えるに違いない。 −
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posted at 13:28:38
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