大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年06月14日(木)
自動化が自由意志と反対なのではなく、自動化する自由がある、とかそんな具合に見える。マインドコントロールのように操作されることと、自動化を同一視することこそ、何らかな論理操作に見える。
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posted at 23:45:49
実際の自動性t.co/YMIi3Ls9 は、中沢新一氏がいうようにt.co/FN0WLL3t イデオロギーというより音楽で、操られて気分を害したら、ただ音楽の自動性がストップする、というだけに思える。それでも操られるのだろうか?
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posted at 23:34:27
そもそも、疑うのは、そういう操る主体を対象にした疑いだ。それ以外に具体的に疑うものがあるわけではない。自動性は疑いによって齎されているものの、それが操られる原因というのは、循環論だ。つまり自動化させるイデオロギーが操られる原因とは思えない。
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posted at 23:15:16
さっきの纏め
t.co/NYWUkR7E では、疑われるから自動性への道が生まれる、という話になっていた。「疑われ」が先にあると、実在性の量で説得するか、無視して自動化するかしかない。つまり、自動性と操る主体は単に別人というだけではないか?
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posted at 23:14:51
ちなみに國分氏が、デカルトの実在性の量(自我)と対置したのが、スピノザの(証明手続きの破棄による指導の)自動性だ。その対局がフッサールの(自動性の)留保と仮定して、本当に自動性は操られて、こういうファシズムの原因になるのだろうか?
t.co/h3mCa60J
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posted at 23:14:26
「神」とよばれるその知性体は、音楽という言葉の構造をこえた構造をとおしてはじめて、ぼくたちの生きる知覚と感情の世界に、巨大なそのすがたの一端を浮上させる。~『バルセロナ、秘数3』
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posted at 19:45:45
ほんとは自動化したほうがいいきもするけど、心こめろとか言われると自動化したくなるしwww (^-^)/ @issop0730 そうでしたか、クラシックは自動化に不向きと、φメモメモ
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posted at 19:36:09
ふつう世間では、疑われたい疑われたいってキョドってる人って、それだけでうざがられるのよねー。それにしても日本語ってすごいね、キョドるの一言で西欧哲学の全容を表現してるものねー(^-^)/
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posted at 17:16:24
スピノザの知性改善論によれば(それによらずとも)、疑いこそ無限連鎖なわけだ。しかし、神が死んだように、じつはこの無限の疑いも、どこかに消えてしまったように見える。だから疑われたくて仕方がない人達、病人が出現してしまったのだろうか?
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posted at 16:56:50
もちろん、この疑う他人を現実にはなかなか得られない、得難い懐疑論者、得難い先行者というのが、実際上問題になる。それで、疑う他人ほしさに、色々な言葉を発する人が出てきってしまう。しかしそれは病理に見える。
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posted at 16:53:41
このように人間であるための証明はw、疑う他人ありき、ということになるのだろう。当たり前だが、アプリオリというか先行するのは「疑う他人で」しかない。疑われているからこそ言語を発して、人間様になる。しかし、そういう偉そうな人間が、個人的には疑いの対象だったりする。(^-^)/
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posted at 16:52:02
デカルトのままでは疑われる我で、デカルト主義者=操られない主体性のようにはなっていかないという話だが、これでは人間以外は心のない機械だという天動説に回帰してしまう。勿論在るのは心ではなくて言語だからだが、その言語は本質的には疑う他人がいないと、発せられそうもない。
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posted at 16:48:56
どこまでも他人に疑われる(ているように思える)自分。まあ気持ちの持ちようよ、という話なのではあるが。そのために、フッサールは12節で、それ(明証)を、スピノザのように、方法論と名指している。
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posted at 16:22:54
よくポストモダンに対する批判で、主体も心もないというのは他のもの(神?)により操られる決定論だ、というのがある。たしかにスピノザの仕事は、実体の論理構造の解決ではあるが、そのままでは単に倫理になる。それは疑われる我の解決ではあるが、勿論、フッサールはその先を考えなければならない。
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posted at 16:20:14
感想。國分氏が指摘するようにスピノザが実体の論理構造の解決(神の描出による証明の破棄)なら、フッサールは、デカルトが描出しなかった(疑われる)我の論理構造を解決しようとしているかのようだ。
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posted at 16:16:02