大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年06月15日(金)
私はデカルトを許せない。彼はその全哲学の中で、できることなら神なしで済ませたいものだと、きっと思っただろう。しかし、彼は、世界を動き出させるために、神に一つ爪弾きをさせないわけにはいかなかった。それからさきは、もう神に用がないのだ。§77
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posted at 19:59:23
私は無神論という安易な逃避は誤謬だと思っていて、好き嫌いで言うと嫌いなのだが、マルクスの存在論でさえ、無神論と誤解できないと、なんとなく感じていた。安定志向の制度化のようになった社会主義的なものが、いま非理性的な様相に見えるのも、そういう直感からのように思える。
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posted at 07:50:35
いわゆる17世紀の問題を、一文に纏めれば、先行する実体は欺く神だった、という普遍論争の解決だったのだろう。実体という先行するものは単に欺く神(無際限に我が疑われること)だというのが、彼らの存在証明だ。フッサールも言うようにそれをエポケーできるわけではない。
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posted at 07:46:05
理性を失わせる安定志向や、諸々の社会主義的な国有化が今や妄想に見えてきているように、無神論者の論理操作t.co/BaaF6NWl は、単なる詐術だろう。無限の疑い(欺く悪霊)があってこその問いだ、ということを判断留保できるわけではない。
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posted at 07:39:38
夜半 t.co/YMIi3Ls9 の続き。そもそもデカルトが省察するとおり、我が疑われるのは、欺く神(操やつる神)によってであって、スピノザのような欺かない神は疑いもしない。にも拘らず無神論者は、無際限に操られていると疑うのだ。もちろんそこに理性があるのではない。
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posted at 07:18:59