大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年07月17日(火)
今またシュタイナーBOTが悟性とかいってたが、メルロ『知覚の現象学』序論も、ヘーゲル的な悟性の批判だらけだ。科学は心理学を派生するに及んで、主体に対する傍観者になってしまった。そこではあらゆる主体の問題が悟性と片付けられている。結果として、実感としての身体が、抑圧されている。
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posted at 20:52:57
t.co/WNe7xBUT それゆえ自分がいるという実感を、うちらがいるのように、簡単に相互承認しあえるとおもっている日本の共同体的心情からは、絶対に科学的客観性への根本的な批判は生まれてこないわけよね。
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posted at 20:23:02
もちろん、心身二元論は、ただ自分という意識があるという実感のことでしかないのだが、おそらく科学がデカルト的神に合体した後は、そういう自分がいるという実感を、客観的に言い表して共有する困難が自覚された、という程度のことなのだろう。
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posted at 19:48:37
最近読解塾で、心身二元論としての近代を教えるのに、魂は西欧では中世にはなかった。おそらく自己意識は(今で言う動物霊のように)神と合体していたのだが、デカルト以降科学がそれに取って代わり、各個人は自己意識=魂になった、みたいな言い方をするようになってしまった。
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posted at 19:46:15
攝津氏「デカルトのラディカルな発想は、『省察』などにおいて、数学的な真理や自然学、今日の言葉では物理学とか自然科学の法則さえも神に依存しているとみたところである。さらに、彼の連続創造説というのは、世界、特に物体的な世界が瞬間瞬間、神の協力によって維持されている、というものである」
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posted at 19:42:33
現象学は、これでもかと近代科学が奪った主体性を問題にするけど、近代科学ってデカルトの方法論だからねー。そういえば攝津氏が面白い言い方してたなー。t.co/HA103b4A 「神が恣意的に自然法則まで変更できる、と考えたのは、私が知る限りデカルトだけである」
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posted at 19:30:27
次の章で序論の結論だが、心理学が傍観者になり、主体を悟性でしか説明できないように、科学が、知覚(自分がいるという自分にだけ判明な実感)を度外視していることが、徹底して批判されるらしい。 t.co/LsMEFwOc
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posted at 18:24:21
ここの対立項は、悟性(による説明)VS反省。心理学は逆さまの視覚が認識できるのを悟性の働きと説明するが、眼球麻痺の人が動かない目を動かそうとすると、視界が移動する錯視になるが、それを反省すると知覚に動機があるという。 t.co/8Tk1SdN8
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posted at 18:12:15