大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2013年01月16日(水)
日本(の経営者)は、ノウハウ=方法に依存しすぎる。それを証明しているのが設備の老朽化。人海戦術で対応できるという大本営的経営をしている限り、ものづくりは無理ね。(^-^)/ クローズアップ現代 nhk.jp/gendai/?g-2013... @sunamajiri
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posted at 20:02:46
意思と方法や仕方は別だからね~。例えば、仕方を変えると無神論twitter.com/sunamajiri/sta... が可能になるとはいえ、それはあくまで方法や方法的誤謬の問題で、意思や理念の問題じゃないんでしょう。(^-^)/ @virusyana
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posted at 01:38:32
(日本仏教的な難読文の書き手たる)現象学な人たちは、言語はイメージでなないという取り憑かれから、解釈学や脱構築にはまるからね。実際に言語はイメージであるより、ショーペンハウエルのいうように音楽と同様の意志やイデアなんでしょうね。(^-^)/ @virusyana
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posted at 01:08:50
告示的定義を方法に転落させたら、さてフッサールと対決だ笑。「現象は自ら示すものであるが、こうした現象の形式的概念、および現象の意味を記述する方法は、さしあたり非本来的な通俗的了解の下に誤解されている」@sunamajiri twitpic.com/bvhera
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posted at 00:56:15
方法としての現象学を実践させる解釈学ね。斎藤の形式的告示的解釈学の章の続きは、理念・遂行・着手点からなる形式的告示が、転落態から事実的生の無を起点とする解釈=反復によって、非本来性の無に転落することで、告示的定義という根源学、つまり哲学となる云々。@virusyana
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posted at 00:35:55