大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2014年03月22日(土)
ちなみにハロルド・ブルームのそれはamzn.to/1mmCpX6 聖書代わりになって心が落ち着く。和訳も原文に比喩論的にも解釈学的にも屈折がなく日本語に馴染むのか、勢い名訳でよいよ。amzn.to/1lZjTRz @LitoSnowfield
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posted at 22:44:24
斎藤氏の博論は、はじめから方法には循環がないとするから、方法的循環を論じた國分氏の博論にあるような、堂々巡りがなくて、実に読みやすいよ。それどころか痛快。しかも誰もレビューを書けないww @LitoSnowfield ~その束縛がない斎藤さんがズンズン進まれるのに小気味良さ
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posted at 21:50:05
実存主義は事実的信仰に走るのかね。ハイデガーが直面するアリストテレスの存在証明を、事実性から回避したがるね。ブルームが、ユダヤ聖書を性的比喩に脱構築する文ではハイデガーの事実性はこう告示される。bit.ly/1daXCAa @LitoSnowfield
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posted at 21:15:46
ユダヤ聖書を性的比喩の問題に脱構築してしまうユダヤ文学者のハロルド・ブルームの主著に「影響の不安」という地味な本があるのだが、誰もハイデガー自体の解釈学的連関の徹底を方法と出来ない、ということ自体がオイディプスコンプレックスだからね。@LitoSnowfield
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posted at 20:58:15
このように、斎藤氏の博論本は、解釈学の地平融合という方法を、徹底してハイデガーに適用するという意味で、現象学者や実存主義者が誰もレビューできないようで、未だにアマゾンで誰もレビューを書けないという、ある意味異常事態なのが楽しい。(^-^)/ @LitoSnowfield
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posted at 20:49:52
要は方法があるかどうかだが、ハイデガーは現象学の方法を解釈学に据えたということだからね。解釈学を方法としない現象学は知覚から認識論となり、批判的理性を超越論とするが、それでは方法が明らかにならない。@LitoSnowfield pic.twitter.com/imtwjYI4IZ
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posted at 20:39:47
その序文bit.ly/1hNwRPD では、脱構築とはハイデガーの解釈の回避と規定され、その上で日本のハイデガー受容はより解釈学的だが、不徹底のため実存主義となり、現象学だけでも認識論となり、方法の理解に至らない、としているね。@LitoSnowfield
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posted at 20:13:56
次頁の日本のハイデガー受容も解釈学的で、ハイデガーに解釈学を適用しない脱構築派より「最先端」だが、それでも狭義の解釈学では、「存在」と「時間」の解釈学的連関である「了解」を解釈できない、というのもよいね。@LitoSnowfield pic.twitter.com/phoCzvVilm
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posted at 20:00:56
その2段落は、現象学以降、ハイデガーが脱構築の聖典なのだが、ハイデガーの転回を解釈学の超越論化と捉えるゲートマンが概念史に陥るのに対して、脱構築ならばハイデガーの解釈した史観に直結し、じつはハイデガーが最も脱構築的、と形式的告示しているね。@LitoSnowfield
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posted at 01:59:27
このゲートマンは、これ以降注釈中にも登場しないのだが、脱構築では不十分だが、ゲートマンの論点を敷衍するならば、じつは伝統的超越論(つまり存在証明を度外視するような理性)からの転回は、より積極的な脱構築だ、とその2段落で言ってることになるね。@LitoSnowfield
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posted at 01:52:49
ここに循環があるね。ゲートマンは転回を解釈学の超越論化と捉えるが概念史にしてしまうとして、これ以降看過されるが、脱構築のようにハイデガーを史観の問いとすると、解釈学が転回の方法と解明される、という部分。@LitoSnowfield pic.twitter.com/V3y0YIIwn0
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posted at 01:40:29