大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2014年03月24日(月)
存在忘却という問いは、ニーチェのようにキリストにルサンチマンを見出すだけでは、アリストテレスの被制作性の罠bit.ly/1he0p7i に落ちて、情動=気分が悪くなるだけだからね。@LitoSnowfield
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posted at 19:26:21
そこは一つの(実存から実存論への)山場だからね。非本来的な死の配慮から、死の先駆的決意性は、しかしニーチェの情動批判と読まないと、釈迦でも誤読する罠(^-^)/ @LitoSnowfield おお〜脚注の嵐…
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posted at 19:16:38
全く、釈迦に説法を読ませると誤読の危険があるというのが面白くて仕方がない。ハイデガーの先駆的決意性にしろ、ニーチェの被制作性への単線的批判性bit.ly/1he0p7i と読まない危険は絶大ね。イエスからルサンチマンを取り出すだけでは、後追い自殺しかねないw
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posted at 17:26:07
ということで、斎藤氏の第六章第3節、ニーチェ的衝動による実存論的拡張、すなわち形式化されていないニーチェの情動(気分)を契機に、死を形式的告示とすることで、実存論から存在論に至る契機の発見の話を、まる一日かけて読んでしまった。bit.ly/1he0p7i
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posted at 16:50:39
配慮(フロネーシス)的に死を空話すれば、結局ニーチェのように、イエスをルサンチマンと語り、善悪の彼岸である被制作性の彼岸は被発見性とならない。自分の死についても一々公共的には口ごもれ、という坊さんの説法は、私(達)には釈迦に説法だな。 pic.twitter.com/VAxOFJNIU0
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posted at 16:46:47
「指示」から「意志」へ。斎藤第六章第3節は、ニーチェがイエスをルサンチマンと空話し、情動を形式化できなかったお陰で、被制作性が偽装された真理に陥ることなく、情動=気分の形式化から、良心の公共化に実存論的に拡張される、という件。bit.ly/1he0p7i
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posted at 16:11:25
第6章第3節、現テクストにあたったりしていた。ここでは「方法」は「指示」であり「意志」になってしまう。他人の死に気休めはいえないし、自分の死なんて考えても始まらないという坊さんの説法のようだ。@LitoSnowfield pic.twitter.com/mwKQOXSxNG
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posted at 16:05:23