大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2014年04月13日(日)
受験生に「神」は観念ではないから、とハイデガーtwitter.com/sunamajiri/sta... のように教えると、中には「じゃあ神って何ですか?天皇ですか?」と躓く子がいるんです。各自の観念で文が読めなくなる、というのはそういうことです。@Shin_Kishida
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posted at 22:09:26
全然学習してないですよ。当たり前というだけです。言語を観念と捉えたら、他人の心は分からなくなる。だから観念=論が要請される。しかし、言語は意味=共同体に転回しているのだから、観念論が不要というだけです。その乗り越えが詩ですよ。@Shin_Kishida よく学習されていますね
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posted at 21:44:18
渡辺さんが倭語の「ものごと」の分節twitter.com/curatorshinya/... を話してましたが、きのう紹介したイアン・ハッキングの英米言語哲学の反省twitter.com/sunamajiri/sta... も、プライベートランゲージ=コギトの不在のことです。@Shin_Kishida
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posted at 21:33:06
それは解説者が近視眼的なだけで、むしろより一般的には転回が知見です。プライベートランゲージ(コギトとなる言語の観念化)こそ存在しない、日本でもむしろ当たり前twitter.com/curatorshinya/... です。@Shin_Kishida 小説など読んでられない気持ち
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posted at 21:31:51
ハイデガーによると、デカルトがコギト(言語を観念とすること=プライベートランゲージ)で覆ったのは、そういった自然のことだそうですからね。@Shin_Kishida ギリシャにワープ(移動)して祭り(祭典)に参加したり、神の宿る自然に触れるような感覚です。
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posted at 21:22:40
デカルトのように言葉が観念であることで生み出される深淵や超越によって孤絶した心、事物を延長の数学と凍りつく日本人のようのようなものを乗り越える力が、どうやらルター語では詩作にあるという問題は普遍的なようですね。@Shin_Kishida 言葉に心を奪われるという状態は転回した状態
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posted at 21:04:20
Shinya Watanabe 渡辺真也 @curatorshinya
そして仏教における平等性智の考え方は、ヴィトゲンシュタインの言うプライベートランゲージは存在し得ないということと同じことを言っている様に思える。
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posted at 21:01:52
Shinya Watanabe 渡辺真也 @curatorshinya
「ものごと」が「もの」と「こと」とに分離して日本語の「ことば」が誕生する以前の日本には、心的なことと外的なこととは一致する、という易経の影響があったのではないか?そして不思議なことに、これは仏教の「無差別智」という同時発生の考え方とも共鳴している。
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posted at 21:00:57
続)言語が観念であることから共同的先天的な意味であることへの転回は、イアン・ハッキングのいうとおり、ドイツロマン派によるのだとして、ヘルダーリンを論じる前のハイデガーが、非延長・非志向、つまり現存在が世界と合一であることを観念化し、ヘルダーリンで転回するという点が興味深い。
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posted at 07:02:16
続)ところで、ハイデガーは延長と志向性を批判して、延長的な客体つまり超越を非延長的な存在者と呼び、空間的な志向を、内-世界で「隔たることで、隔たりがないこと」である現存在と呼んだりするようだが、そもそも延長~志向は、17世紀に言語が観念のままであることから派生したに過ぎない。
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posted at 06:50:35
続)もちろんイアン・ハッキングに依らずとも、言語論的転回とは、言語が後天的な自分にだけ通用する観念であること(それゆえ他人の言語=観念への懐疑論と成ること)から、先天的に言語に意味があると見做すことへの変化のことで、共同体が非切断的・継続的にあると見做すことだ。
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posted at 06:40:30
つまり、コギトでは言語が観念のままで、意味にならない。言語が意味に転回するとは、共同体のことだ、というのがこの転回の命題なわけだが、イアン・ハッキングは70年台初頭のイギリスでの言語哲学離れ・ドイツ哲学への傾倒、70年台後半の人工知能論者の17世紀への逆行を論じている。
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posted at 04:33:13
17世紀の言語=観念というコギトの問題からの言語論的転回は、英米の言語哲学からみても、どうしてもドイツロマン派である必然性があるが、カントではだめで、ヘーゲルにそれを求めるヘルダー、というチョムスキーの言語学史観を紹介しているようだ。bit.ly/1iF6o60
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posted at 03:59:04
17世紀の言語=観念というコギトの問題からの言語論的転回は、英米の言語哲学からみても、どうしてもドイツロマンはである必然性があるが、カントではだめで、ヘーゲルにそれを求めるヘルダー、というチョムスキーの言語学史観を紹介しているようだ。bit.ly/1iF6o60
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posted at 03:56:53
イアン・ハッキングの日本語版への序文も89年と牧歌的だが、デカルトの懐疑のように、言語が私秘的な観念の17世紀から、言語が公共的な意味になった時点を問い、「人工知能論者」は言語を17世紀の観念論で捉えている、という論考になっている。bit.ly/1iF6o60
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posted at 03:46:53