大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2014年04月19日(土)
ちなみに、ent-ferungというハイデガーの造語的分離動詞で四人の訳者が苦労しまくっていて、いま一番よいといった高田も「阻=遠」だが、この単語以外で命題を捉えることに成功している。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 20:48:56
「可能性としての~」というのは、柄谷行人の「~の可能性の中心」ではないが、本来哲学がそうであるべきものとして、たとえば今日届いた新刊書では「可能性としてのカント」「可能性としてのフッサール」から捉えると、科学的対象である超越論的主観からの転回が、という話になったりする。
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posted at 20:34:57
いわば、やっていることは、ハイデガーの訳文の受容によりニヒリズムに屈折した日本文学という系譜学を研究していることになるのだが、このように訳文に「可能性としてのハイデガー」が全く感じられない。とくに去年でたばかりの岩波文庫版熊野新訳が、かなり悲惨である。
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posted at 20:33:15
なので、この段落冒頭を日本語にすると「現存在は隔てを創出するが故に世界=内=存在である。それゆえ、手許存在までの隔てを決して渡り切ることができない。仮に現存在が自らを手許存在と見做すと、自身までの隔たりが不明になる。よって単なる距離として見出すことに、現存在は関わらない」で十分。
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posted at 20:30:49
(続)そこに高田訳だけ「手許にあるものと自分との間」というように、現存在が自分を手許存在と見なすことで錯覚してしまう距離、という批判対象が訳出されている。その他の訳者は、この重要命題の日本語訳に成功していない。
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posted at 20:30:34
297段落は、デカルト認識論批判の絶頂箇所だが、それだけに延長カテゴリーを禁忌とした訳文が造られなければならない。そこにあるのは、現存在は隔てを生むが、隔てられた手許存在は現存在ではないから、現存在を隔ててみる単なる空間は、空間ではないという命題なのだが(続)
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posted at 20:30:15
熊野新訳では「手もとにあるものの現存在自身からの距離」、細谷訳「現存在から用具的存在者の距たり」、高田新訳「手許に在るものと自分とのあいだにある遠さ」。高田訳だけが、自分を手許存在とみなす場合、というこの段落の命題を訳出できたことになる。
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posted at 20:29:59
数日にわたって、延長カテゴリーを禁じる297段落付近の和訳の仕方を、辻村、細谷、熊野新訳から考えてきたのだが、高田新訳だけ「現存在が隔てた手許存在に自分も含む場合」という命題が明示されている。bit.ly/1qYCAYc
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posted at 20:29:34
やはり当初立ち読みで直感したように高田新訳が一番「和訳文が練れている」。ハイデガーの和訳は、訳語解釈に拘るあまり、注解でしか命題を取り出せないような訳文になっている。商業翻訳では下訳レベルなのだが、訳者は原文のせいにするだろう。しかし解釈学としてのハイデガーを解釈できていない。
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posted at 20:28:51