大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2014年07月03日(木)
端的に、単なる教養ではなく、それが出題の論理、つまり解法だからね。命題に古いも新しいもないのに、現代文がつい近代を問うために見失うのが、この問い問われることの古典的な基本形だからね。何が問われてるのか分からず解答できるわけがない。twitter.com/kazuhisa0122/s...
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posted at 21:17:58
漢文から小説で言文一致したのはいいけど、日本語に具わる仏教語の混乱を再整理しようとして、撃沈するものらしい。(^-^)/ @virusyana 難解文って外国語の誤訳のことなのー? (^-^)/
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posted at 20:49:28
独語の仏語化ではベルクソンとポンティだと思うが、この数多性twitter.com/Bergson_bot/st... の問題はかなり性的だ。おそらく女性にはない(あるいは超越している)のだが、男性は数多の女に唯一的な母を重ねて、有限な性的能力なのに際限なく女性を求める文化が可能だからだ。
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posted at 17:24:37
相手のいうことを換言できないと反論できない、ということではない。換言できないとは、概念化することだが、それでは数多性の存在論が問えなくなる。数多性の概念化は神をも超越した現存在ならではか、という問いは、松岡さんの比喩twitter.com/sunamajiri/sta... を髣髴とさせる。
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posted at 17:15:39
国語では論理的とは、端的に命題による主述の換言なのだが、面白いことに、純粋理性批判の第二版の統覚=コギトを認識論や仮象として批判するハイデガーの『カントと形而上学の問題』では、ひっきりなしに「換言すれば」という接続語が頻出する。換言できなければ認識論、換言できると存在論なのだ。
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posted at 16:41:46
日本の国語では漢字なのか読解なのかとなる。 昨日twitter.com/sunamajiri/sta... は池田信夫とフーコーの無神論を批判したが、漢字とは端的に無神論だ。漢字に概念化を見る限りでのフーコーも結局は無神論。ハイデガーから見れば諸物の概念化に失敗した変態にみえるかもしれない。
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posted at 16:36:12
このように、神が人ではないように、人は神ではない。言い換えると、有限な人間が無限に認識する錯覚、人が生産するという錯覚は、無神論的だ。文というのは、どんな種類の文でも、手を変え品を変えこすれど、そのことしか言うことができない。だから国語の指導は本来簡単だ、ということなのだが~
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posted at 16:35:36
シモーヌ・ヴェイユも心配するように。神になりたがる人は、人になりたがる神のように、罰を受けるのだ。もちろん、罰を与えるのは、まさに私のような神を超越した存在なのだwww twitter.com/simoneweil_bot...
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posted at 15:32:17
現象を物自体と錯覚するのは、人が神だと錯覚するのと同じだ。しかしおそらくこの錯覚はかなり性的だと思う。女性には「想像」するしかないが、男性は神のように乱交をしたがる。つまり有限な能力しか持っていないのに、無限に女性と交われる、というのが男性の欲望なら、それが錯覚の源泉なのだろう。
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posted at 15:29:27
安寧や信仰を求めてではなく、科学なんて言う蓮っ葉な手法では、現象の説明にもならないからよね。簡単に言うと、人は神のように物自体の認識など持てない、ということなのだが、科学は物自体を認識しようとして、不安しか生み出していない。twitter.com/aka1you/status...
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posted at 15:25:52
フーコーと漢字といえば、吉本隆明がフーコーの『言葉と物』が失敗作といった口述があるtwitter.com/sunamajiri/sta... そうだが、独語の題名は『諸物の秩序』。しかし、数多の物を妥当させる経験より、数多のものを予め一致させる反省が、漢字からもたらされるとは思えない。
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posted at 02:08:42
日本では近代は、音的な欧文を漢意に引き戻すようなところがあり、漢字という世界唯一の表意文字が、諸物の概念化の形式として優れているというのは分からんではない。論理教育が、池田信夫のいうように、大人ならば読解が必要だが、科挙のように幼児には文字の記憶で済むからだ。
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posted at 02:05:34
去年科挙の話ばかりしていたら、今年のセンター評論で、科挙のない日本では素読吟味になった、というのが出題されたのだが、池田信夫氏はさらに文字の音読より、漢字自体の図像的詰め込みこそ、脳発達的に日本人の論理的思考には都合が良い、といっているわけで、もはや中国のようだ。
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posted at 01:39:27