大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年01月14日(水)
後が無いというのは、存在論的ではハイデガーが単数化した歴史によって排除されたものしかなくなり、幽霊や郵便しかなくなるということが、東のデリダ論だったと思うのだが、確かにハイデガー~ラカンで総転倒したソーカル事件ではないが、残るは排除された宗教の台頭ぐらいしか見えてこない。
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posted at 06:45:46
フロイトのように否定するハイデガーには出来て、デリダには出来なかったことというのは、たとえば東の博論では哲学素の固有名化という対比だが、ザラデルでは、それゆえデリダはハイデガーにヘブル語を喋らせることぐらいしか、後が無いという。 pic.twitter.com/CMQZRk4vlm
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posted at 06:22:51
前期から後期が可能になること、という問題だが、ハズマンの博論の主題だったので、じつに15年ぶりに少し読み返している。フッサールの超越論的歴史という歴史の単数性を、ハイデガーの歴史の複数性で脱構築した後、デリダが政治に転向してしまう。東も後書きで、後が無いと告白している。
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posted at 05:54:37
つまり、誰一人としてハイデガーのように転回の後がなく、ハイデガーによって転倒させられる(デリダどころかザラデルでさえも)。合田はハイデガー全集の未公刊が解消した頃に、ザラデルがどう位置づけられるか、で訳書後書きを結んでいるのだが、転回に比して単なる転倒で後が無いようにみえる。
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posted at 05:49:33
とはいえ、合田正人の訳者後書きはザラデルの地平での的確なザラデル批判になっている。フロイトの否定でハイデガーの存在論的差異、つまり襞が回避するものを問題化し、デリダとレヴィナスを転倒として脱構築しても、そのザラデル自身が転倒している。 pic.twitter.com/f9YWsQpjxA
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posted at 05:44:47