大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年01月19日(月)
カントをそうできてしまうのは、フッサールの威力なのだが、中田光雄の緩慢な書き出しの近著では、フッサールがハイデガーのゾルゲに目覚めてしまう、と繰り返しているうちに、どんどん加速していき、メルロがハイデガーの真理をフッサールから受け取る話ばかりになる。@LitoSnowfield
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posted at 21:08:48
ちなみに、本文でたじろぐのは、カント読者でないからというだけなのだ。物を存在者といったりね。しかし、カントなど読んでいなくても、わかるように親切にする、というのがハイデガーの叙述の方針なので、それにとっては、カントなど妙な先入観に見えてくるほどだ。@LitoSnowfield
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posted at 21:03:05
その点で高田珠樹の訳は、ハイデガーのそういうドライブ感を、完全に引き出しているね。他の従来訳はだめだ。一々、対訳語という単語のレベルで引っかかる悪路で、すぐに進めなくなるような訳し方になっている。訳者がカントで混乱してるだけだと思うのだが。@LitoSnowfield
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posted at 21:01:59
『存在と時間』は最初は加速感あるからね。第一節はど真ん中すぎるが、次第に速度が追いついていくから、序論と第一章を一気に読んで、訳者あとがきで小休止という読み方が楽しめそうね。というか小説で続きが気になるように、引きこまれて止まらなくなるはずよ。@LitoSnowfield
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posted at 20:59:51
そのように、加速度的なザラデルが叙述したように、ユダヤ聖書のように註解が無際限になりかねない聖典性ならぬ原典性のある書物なのだが、高田珠樹の訳注は、熊野訳のような註解に陥らず、従来の日本語訳の未完成に言及してるようなもので、おもしろいけどね。@LitoSnowfield
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posted at 20:33:53
註解が切りのない書物なのだが、現存在と存在者というカント用語は、コギトのように神をイデア(性質の理想)のように捉えていたのでは、存在に言及できない、という問題を問い詰めようとしているだけなので、それらの用語の定義は本文に出尽くしているのだ。@LitoSnowfield
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posted at 20:28:30
現存在は、いわば日本という文脈に気を取られるはずものないから、いきなり本文でOK。下知識は、緩慢で失速して未完化する書物という点と、人間と言わず現存在、モノと言わず存在者なのは、存在を問うため、という用語法ぐらい。しかし読んでいるうちにわかる。@LitoSnowfield
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posted at 20:23:23
高田訳本では訳者前書きは凡例だけでないよ。それだけハイデガーは余計なことに気を取られず、本気にいきなり飛び込む一次文献だ、ということなのだが、これが他の書物だと、訳者前書きで文脈を断ったりするのだが。そういうのが不要な本なのだ『存在と時間」って。@LitoSnowfield
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posted at 20:14:02
書籍の構成的にも、後書きは普通は後から読むことを想定してるわけだが、いかに余計なことに気を取られない気の仕方ができるか、というハイデガーの問い方の場合、文庫版の小説の末尾の解説以上に、訳者後書きが気になる場合があるのだと思う。@LitoSnowfield 後からと訳者あとがきは後
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posted at 20:09:33