大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年03月17日(火)
ちなみにその次の箇所笑うよ。「もっと単純に見ろ、それが饒舌な現象学だ、東洋の仏教だと受け取る人がいるが笑えない」とハイデガーが語るのだが、『フォス新聞』『ウーフ誌』って仏教かぶれの当時の三流紙なのかね?@LitoSnowfield pic.twitter.com/qw9TPvlKI8
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posted at 07:09:30
新カント派は、カントの転回を、神の造り手は人で、だから人には無限の数学的能力があると、過信してるのだ。しかし、カントどころかアリストテレスも、そんなことは何一つ含意してないぞ、というのがカント書のハイデガーなのだ。それでカッシーラーと論争になる。@LitoSnowfield
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posted at 06:29:18
ダヴォース論争では、どっちが人間中心主義か、と論争してるのだが、当然のことながら、神を人が作れる、なんていう人間中心主義の方が奢りや横暴であって、そのことにカッシーラーは最後まで気づけない。彼は人間が神を創造できるほど無限な能力と考えているのだ。@LitoSnowfield
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posted at 06:20:43
カッシーラーはユダヤ系だからか、どうしても人を神の造り手と思いたいのだ。ところが人が実際に何か手を動かして作ると、出来上がるのは神ではないのだ。それをしつこくいうことがハイデガーにとっては現象学なのだ。リトさん見抜いてるのよ、それ。@LitoSnowfield
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posted at 06:15:39
転回までのハイデガーは少なくとも、制作することを神による創造と履き違えるアリストテレス~キリスト教にあるプラトニズムを問題にしてるのだが、人が造り手でないから神なのだということが、周りに理解されてないのだ。@LitoSnowfield
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posted at 06:14:47
そうなのよ。それがダヴォース論争のカッシーラーが理解できないのよ。新カント派というのは、人が神の造り手、つまり宗教画の世界なのだ。ハイデガーは考えるより先に手を動かしたら、神など作らんぞ、という話をしてるのだ。@LitoSnowfield
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posted at 05:53:32
つまり、実際に制作するのではなく、頭で考えているだけだと、いざ制作しても宗教画のように神を思い浮かべてしまう。つまり人が神の造り手になってしまうのだが、考えるより前に手を動かすと物が生み出されるのだ。@LitoSnowfield
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posted at 05:48:39
ダヴォース討論の話 togetter.com/li/791136 で、人間が神の造り手から開放される話になったけど、中世の宗教画からルネサンスになるように、たとえばここも制作物は製作者から自立してある話。@LitoSnowfield pic.twitter.com/S5ZAx2LQuf
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posted at 05:43:01
先カント書的散文は、ただそれだけのことで、難しいわけではない。その基礎づけの根源が理解できずデカルト~カント的要請に遡行する人は、必ず無の問題に囚われているが、カント書はそれも解決して、散文の役目が終わった。それで基礎づけられない人は信仰にいくしかない。@jeanbeauty2
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posted at 03:58:35
書誌的要約では、『存在と時間』が等根源性を告知して破綻し、『~諸問題』が何の等根源性かを形式的告知し、『カント書』で等根源性が、告知された企投と被投に対する同時性と解明されている。ただそれだけです。twitter.com/sunamajiri/sta... @jeanbeauty2
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posted at 03:53:02
ご承知のように、破綻的な(先カント書期的には破綻性しかないのですが)『存在と時間』では、まだ単なる「等根源性」です。等根源性が何か、ということは解明されていない。それどころか、『存在と時間』は、何の等根源性かという『現象学の諸問題』のような明示が足らない。@jeanbeauty2
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posted at 03:47:42
カント書は、カント的な転回に対する新転回に至るための基礎づけの根源化です。企投と被投の同時性、志向と制作の同時性、本質と実存の同時性、それらが超越論的時間規定として、基礎付けにとっての根源、つまり不動の動者になった。@jeanbeauty2
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posted at 03:32:16
デカルトでは基礎づけは、根源的ではなく、神観念要請です。アンセルムスの「神の概念に存在を含む」という存在証明に対する、カントの「存在はレアール(実在的)な述語ではない」という転回が、この基礎づけの根源への遡行を可能にしているわけです。@jeanbeauty2
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posted at 03:30:08
カント書で踏破された基礎づけの根源に至る解釈の道は、先カント書的な『現象学の根本諸問題』では、本質と実存、思惟と存在、志向性と制作性、存在者と存在、という存在論的差異、つまり差異の共通の根源ですね。@jeanbeauty2 pic.twitter.com/Ge5noXQsQA
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posted at 03:27:29
確かに、後カント書的には「存在の歴史」で、現代には詩しかない。しかしカント書で踏破された、基礎づけの根源(時間の超越論的な純粋性、同時性、先行性を有さないこと)が、何の基礎づけか、というのが先カント書の散文ですね。これが一番面白い。@jeanbeauty2
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posted at 03:24:57