大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年03月28日(土)
しかし、やはりカント書自体のテクストクリティークをした方がいい。ハイデガーのどこに独創があるのか(根を時間といえているのか)、そしてそれはカントの可能性の条件をどれだけ本来化したのか、といったような点で。@jeanbeauty2
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posted at 22:54:45
つまり非西欧ということなのだろう。ちなみに、ハイデガー現象学の根本諸問題のコプラ論で、ホッブスの唯名論が斥けられるけど、國分浩一郎のスピノザの方法で、ホッブスはデカルトの実在性の量という第三省察への懐疑として触れられていたのを思い出した。@jeanbeauty2
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posted at 22:54:07
柄谷が言っているのは、デカルトの我があるための疑いは、インドヨーロッパ語への疑いで、それが経験だというもの。カントはそれを踏まえ、デカルトにある自我分裂を収めたが、フッサールは自我分裂に嵌り、ハイデガーは存在論的差異からそれを解消した、という論旨のようです@jeanbeauty2
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posted at 22:51:04
柄谷は「疑う我と考える我をカントだけが混同していない」が、ハイデガーは疑う我(経験)と考える我の差異だけで(存在了解と存在論差異)に目を奪われ、場所(共同体の間)が見えていない、というむしろ抽象度の高い語り方をしている、@jeanbeauty2
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posted at 22:47:39
デカルトには、ego sum cogitansとならない、超越論する我と、超越論される我の自我分裂があり、カントはそれを解決したが、フッサールはそれを圏域にした。ハイデガーの非直前存在論は圏域批判にはなるが、場所(共同体の間)にならないという語り方です。@jeanbeauty2
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posted at 22:45:20
柄谷行人が、おそらく同じようなハイデガー批判を展開しているわけです。主要部を抜粋すると、bit.ly/1OJnBhR bit.ly/1CvIaZV 共同体の間とか耳障りが良いので、煙にまかれて、カント書などより質が悪い。@jeanbeauty2
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posted at 22:44:10
このあたりは、先述の坂部恵と黒崎政男と柄谷行人の鼎談が、昔ありましたね。その途上で、柄谷行人はハイデガーのいわば非直前存在論はフッサールへの批判としては妥当だが、カントやデカルトを批判できていない、といっているわけです。その辺りどう思われますか?@jeanbeauty2
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posted at 22:07:41
ハイデガーがカント書で言及する、カントの構想力をめぐる動揺というのは、ハイデガーにとっては時間の動揺というより、ヘーゲルにとっては、カントの直感的知性(B145)に見え、それを根源的同一性というものが、ハイデガーには根が時間に見えるというだけでしょう。@jeanbeauty2
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posted at 22:06:25
そりゃそうでしょう。カント書がそこから何を取り出すか。それを読まないと面白くない。構想力がどうその時間に結びつくか、という話ですからね。理性主義に対する、いわば本来の無意識、産出的構想力、能動的知性みたいな話なのでしょう。@jeanbeauty2
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posted at 22:06:01
鍵RT @jeanbeauty2 カントは時間を、経験的な概念では、ないといいました。同時、継続ということの知覚は、すでに、常に時間という表象が、存在する、と言いましたね。bit.ly/199kO0D
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posted at 22:05:33