大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年11月15日(日)
ハイデガーの主張は、カントは基礎づけられていない形而上学を前提としていて、新カント派は、それを受け取ってしまったが、それは人間とは何か?という形而上学で、人間とは如何にか、という方法になっていない、という一点です。それがポスト『存在と時間』問題です。@1012Wk285557
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posted at 23:58:03
哲学的苦行というのは、隠者君の言う無限後退のことです。ハイデガー用語では、「基礎づけられていない形而上学」。これが非本来性です。基礎づけられていないとは、方法化されていない、という意味です。twitter.com/sunamajiri/sta... @1012Wk285557
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posted at 23:55:35
ハイデガーのカント講義書GA25の冒頭で苦行としてのカントを、カント以上に見通すこと、というのが語られるのは www.evernote.com/shard/s157/sh/... 有限と現象という根源=ラディカルさ、というのが味噌だが。(^-^)/ @1012Wk285557
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posted at 23:41:57
世界は古来より人間の謂で、だから近代以後、人間とは何であるか=世界観というのは、形而上学的誤謬=非方法で、世界とは方法自体だ、というのがメタ存在論ですが、それはカント書で方法化されています。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada
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posted at 23:36:48
道は途上=方法が重要ですが、それを明示化しない用語法だと、それこそバウムガルテンのように、基礎づけられていない=方法化されていない形而上学に陥り、如何に=方法ではなく、何であるか?と実体を語る羽目になりますよ。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada
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posted at 23:30:59
非公開
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posted at xx:xx:xx
だいたい、カントを楽勝と思うハイデガー以外、カントを苦行と思うと、極端にはこうなる(^-^)/ twitter.com/sunamajiri/sta... @1012Wk285557
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posted at 20:18:32
ハイデガーは全集25巻、いわゆるカント講義書の冒頭で、カントの苦行を徹底的に解体しようとするのだが、要するに楽しまなきゃね。カントも楽しいが、ハイデガーが苦行というのは、それは楽しみ方を知らないだけだww @1012Wk285557
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posted at 20:17:49
そやそや、苦行しないことやねん。彼らの神は苦行させてきたからね。仏教もコトバにすると苦行というか雑念になるから要注意だが。bit.ly/1YbK4HX twitter.com/1012Wk285557/s...
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posted at 20:09:49
GA24-217 bit.ly/1WSLtGm は、デカルトからドイツ観念論まで、被造物であるという自己知が余りにも自明で、存在論に至っていないという話題です。GA24ではその真逆を学的企投しようとしたが、GA26では、そこから転回するのです。@BeTakada
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posted at 06:03:26
しかし、丸山論文の範囲では、twitter.com/sunamajiri/sta... で引用される『現象学の根本諸問題』のGA24-217 bit.ly/1WSLtGm の話題を知っておくべきです。@BeTakada
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posted at 05:58:36
GA26の次の項目は、いよいよ内時間性から時間の手許化、脱自的時間性 twitter.com/sunamajiri/sta... というフッサール批判になっていくんですが、この丸山論文では、その問題には触れられていません。@BeTakada
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posted at 05:31:42
眼前自然は、予め(客観的に)内世界(意味連関)にあるのではなく、単に現存在の超越が事実的だからこそ世界(視界)に進入してくるに過ぎない。こう神話的に語るには、逆に時間が眼前から手許に根源化されなければならない。@BeTakada pic.twitter.com/Slim57mmh1
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posted at 05:12:15
現存在は日常性に事実化されるが、自然は静態的に手許の有意義連関として内世界化されてしまう。そこから事実的な自然へ超越するためには、現存在の分析論=日常性では不十分だ、ということです。@BeTakada pic.twitter.com/fQWfRDuoHZ
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posted at 04:51:58
それで、bit.ly/1MIQDcO の世界入場(世界進入)GA26-249-252という箇所になるのですが、それは端的に存在了解とは、自らが創造者ではない、という有限性の理解のことです。@BeTakada pic.twitter.com/5gfWWpN0A6
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posted at 04:43:46
その意味で、タカ基地さんの、手許性は凡てか?という立論は、非常に精確なのです。有意味連関=内世界性が凡てであるのはおかしい、という違和感の表明なのですから。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada
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posted at 04:33:46
したがって、丸山論文ではGA26のメタ存在論とは、新カント派にいたる学的企投がそうであったように、自然(眼前存在者)を内世界性=意味連関=手許性として捉えることから、事実的自然を前提することへの転回なのです。@BeTakada pic.twitter.com/0Ke9M5wZiX
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posted at 04:27:39
『存在と時間』は実存を事実性とする基礎存在論だが、GA24『現象学の諸問題』は、自然の事実性を領域存在論しようとして、挫折している。そのあたりが、丸山論文ではここ。手許性では汲み尽くせない眼前性(の発見)です。@BeTakada pic.twitter.com/nP80MW9L2S
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posted at 04:20:33
これに対して、領域存在論=学的企投は、客観を前提としてしまう(GA26-250)。眼前存在、つまり自然を客観という内世界に前提することが、学的企投です。メタ存在論はその前提からの転回です。@BeTakada pic.twitter.com/1HEt8yd37X
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posted at 04:02:05
GA26-199の(基礎存在論にとって)実存が事実的であるように、(メタ存在論にとっては)眼前存在も自然の事実性が前提となる、という部分。丸山論文だと前半のこのあたり。つまり転回とは自然の事実性への転回です。@BeTakada pic.twitter.com/N4rCszgAtZ
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posted at 03:59:57
ハイデガーの転回は、基礎存在論からメタ存在論への転回で、それは領域存在論=学的企投とは異質だ、ということ twitter.com/sunamajiri/sta... であるのを念頭においてください。つまりカント的学校概念からの転回です。@BeTakada
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posted at 03:49:37
タカ基地さんの「手許性はあらゆるものか」というご質問と、関係しますね。twitter.com/BeTakada/statu... むしろ、眼前性はあらゆるものか、という逆の問題なんですが。@BeTakada
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posted at 03:47:13
眼前存在者は必ずしも内世界性(手許性)にはないが、時間は内時間性にはない、という次節を先走って紹介したので、タカ基地さんのここ twitter.com/BeTakada/statu... に一旦立ち返ります。@BeTakada
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posted at 03:45:00