大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2016年04月13日(水)
通常、ハイデガーのカント批判(解説)よりカント本体の方が有益だというのは、この独断を捨てるために感性的時間を絶対視しているのを自明視した上で、カントの弁証論のいう純粋理性に対する批判とか、実践の自由とかが有益という話だが、ハイデガーはその土台となっている絶対時間を解体するからね。
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posted at 19:41:05
絶対時間か相対時間かというのは、被造物であるか否か、というパースペクティブの話で、カントは意外と、被造物であるためには、という独断を捨てきれず絶対時間を語ってしまう(より厳密に言えば、独断を捨てるために絶対時間を語ってしまう)が、ハイデガーはそんなばかな、というだけだからね。
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posted at 19:36:23
問題はやはり、カントが独断の微睡みから醒めてもなお、絶対時間の微睡みに燻った、われわれ=共同主観の真理前提、あるいは超越論的真理という、ハイデガーがカント書で立ち向かう問題なのは明白である。それは図式でしかないものを範疇と誤解した、カント独特のプロセスがあるということなのだろう。
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posted at 02:25:07
私の作業概念でいえば、物理学(自然学)を絶対時間に独断させる潜勢的形而上学に対して、物理学が絶対時間という微睡みから醒めた後=メタとなる形而上学は、一元論的、現勢的形而上学といったところか。
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posted at 02:19:03
フィジックのメタ(後)という形而上学は、それこそ近代以後は心霊現象か何かのように錯覚されてしまうのかもしれないが、むしろ物理学が錯覚から覚めた後(メタ)となる形而上学は、先存在論としての物理学を存在論にもたらす、といった構図でしかないので、いかがわしさがどこにもない。
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posted at 02:13:43