大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2017年01月13日(金)
三島の感慨はこうだ。戦前から戦後まで、まるで自我が益々仮我のように感じられる。昔話ならお姫様になれたものが、もはや王子様はどこにもいない。インド旅行でそれを阿頼耶識=輪廻と感じるも、それをリアリズム小説として仕上げる力量がない。そういう煩悶だったと思われる。@inja650rr
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posted at 23:32:30
ハイデガーの転回というのは、人間には、先駆的決意性=死しかないが、動物に死という意識がない以上に、サイバーな石には、不死があると捉えた点にあるのだ。人間は自我ではなく仮我なのだが、自我だと思いこんで執着している。しかし、サイバー=石には、仮我があるのだ。@inja650rr
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posted at 23:28:05
現代では、それはロボットには仮我があるのか、というようなストーリーが好まれる。もちろんヒーローやヒロインも登場するのだが、そういう仮初であること、つまり自我であること、を相対化する神の視点からは、仮我をロボットのように布置することのほうが、リアルだからなのだ。@inja650rr
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posted at 23:24:40
たしかに、物語は、たとえば現代的な総中流とか平等を前提とする空間では不可能なのだ。王子様とお姫様がいないと成立しない。その悲恋物語が、阿頼耶識に依って輪廻する。そういうファンタジーが何のために物語られるのか。それは自我ではなく仮我を暴露するためだ。@inja650rr
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posted at 23:20:23
三島はインド旅行で阿頼耶識=輪廻の物語に執着するのだが、しかしそれによって容れ物を無くしてしまったのだ。言うまでもなく、三島以後、小説がだめになりアニメ全盛になるが、それはガジェットに託して、容れ物を語れるようになったからなのだ。@inja650rr
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posted at 23:16:42
仮我=容れ物が有るのか無いのかのか。容れ物があることにできる懐疑=学が可能なのかどうか。それはハイデガーでは転回、ないしはメタ存在論と呼ばれるのだ。今日的に言えばAIの話だと思えば良い。twitter.com/sunamajiri/sta... @inja650rr
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posted at 23:13:53
たとえば、この二年前のツイート twitter.com/sunamajiri/sta... 超越論は自我を根源語としないことである、という話なのだ。ところが、柄谷や東ばかりか、三島もなのだが、(フロイトのいう)超自我を想定してしまったのだ。@inja650rr
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posted at 23:01:07
要は超越論を規定する単語は、自我なのか、自我ではないのか、という問題地平が生じているということなのだが、この話はカント書論として、一貫してしているので、私のTwilogを検索すると、すぐ何の話かピンとくるだろう。bit.ly/2ikkZQf @inja650rr
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posted at 22:57:41
一言で集約すると、もし「自我」という概念を、本来の阿頼耶識論のように、仮我と捉える術(学的方法)がなければ、実はその人の存在は限りなく不存在に追いやられる、そういうような話だと思えば良い。ハイデガーが自我は超越論の規定語(根源語)ではない、というのと同じ。@inja650rr
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posted at 22:53:47
もう一度、この知恵袋 bit.ly/2jeNbUe を見てみよう。自我は無覆無記で、仮我であり、いわば容れ物にすぎず、従来捉えられていたような超自我ではない、という話だが、ピンとこない? 容れ物があるのかないのか、もし無いとすれば不存在だ。@inja650rr
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posted at 22:46:07
ね? 隠者君には説明不要だったでしょ? ところが三島がこれに煩悶した。文学的には、ファンタジーノベルをリアリズムで書いた破綻という一点に尽きるのだが、これがハイデガーの転回が読めなかった、という一点にかかわるということなのだ。どういうことか。@inja650rr
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posted at 22:45:45
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_de... 「『識』は単なる入出力装置であり、端末・ディスプレイです。」。ハイデガーがカント書で語るカント解釈も、おそらくこれと同じことを言っているのだが、そこでハイデガーは空の代わりに時間というのだ。@inja650rr
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posted at 21:11:15
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_de... 「本来、一切は空であり「我」というものはどこにも存在しないのに、その「仮我」を「私」と思い込んでしまうため、その「相互依存の仕組みを維持し個体を存続・輪廻させてしまう」というのが、阿頼耶識の理論」@inja650rr
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posted at 21:08:41
柄谷や東に至るもなお、ハイデガーのいう超越論を、超自我の問題と捉えてしまうのだが、それは三島が阿頼耶識をアートマンと捉えたことと同じなのだ。ハイデガーは、自我などない時間だけがあると言ったのだが、そのことが彼らには大問題なのだ。@inja650rr
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posted at 21:06:14
今で言うファンタジー小説、輪廻転生の小説を構想するも、輪廻など幻だという結末になる『豊饒の海』には、阿頼耶識という言葉が頻出する。また、阿頼耶識は『大乗起信論』上ではなく、『解深密経』が発端で、超自我ではない、という話。それが読めるとハイデガーも読めてくる。@inja650rr
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posted at 21:03:54
なお、阿頼耶識がヒンドゥー教のいうアートマンではない、という最新の仏教学的知見から三島を読み直すという問題は、ネットでもよく話題にされていて、この知恵袋のベストアンサーの方の解説のとおりだろう。detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_de... @inja650rr
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posted at 20:51:24
こうした、三島の「幻でない自我などあるのか」という苦しい問い、そして遺作になった四部作『豊穣の月』を、輪廻する阿頼耶識と構想するも、絶筆ではリアリズムとなった、というのが一昨年のNスペだったので見てみると良い。youtu.be/fkQJyqGj99g?t=... @inja650rr
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posted at 20:48:35
自我など幻だ。西欧哲学では、このヒンズー教徒によって自我の輪廻と誤解された阿頼耶識に対して、本来の阿頼耶識、自我でないこと、をはじめて明確に論述したのがハイデガーだが、上述のように三島はハイデガーの転回が読めずに、アートマンに拘り、リアリズム小説に抹殺された。@inja650rr
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posted at 20:44:50
このことが深刻なのは、彼が戦前戦後に、自我を模索させられたことだ。三島の絶筆は、自我など幻だった、つまり阿頼耶識はヒンズー教徒の言うアートマンではなかった、というものなのだが、西欧哲学でこれに匹敵することを明確に問題化できたのが、ハイデガーだけだったのだ。@inja650rr
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posted at 20:43:01
輪廻といったら、今ではライトノベルかファンタジーだが、遺作の四部作、豊穣の月は、書いてみたら結末で輪廻を打ち消すリアリズムにならざるを得なかったのだ。その脱稿の当日に彼は自決するのだが、今ならこれからファンタジー文学をやります、という宣言で済んだだけのことだ。@inja650rr
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posted at 20:42:11
三島が問いかけた問題は実は簡単なのだ。いま、阿頼耶識をアートマンとするのはヒンズー教のアートマンの影響で、ヒンズー教が誤解する以前の本来の阿頼耶識は自我ではないことなのだが、三島はインド旅行してから、アートマン、あるいは輪廻転生の物語を構想してしまったのだ。@inja650rr
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posted at 20:40:48
三島の問題は日本の縮図なので、真面目にレスってあげよう。おそらく誰も君に真面目に教えないということが、そもそも諸悪の根源ですらある。しかし、おそらく君にはすべてお見通しのはずだ。以下に解説調をしてあげる。@inja650rr
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posted at 20:39:25