大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2017年06月06日(火)
転回というのは情動論から気分論に突破することだが、模索とか葛藤とか探求というのは、それができない愚痴のようなものだ。だから探求=愚痴が、未転回というだけで、探求自体をしなければ、既に転回しているのだ。逆に、最近の悟り世代が気分から頽落して情動の話ばかりをしたがるのだとすると・・・
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posted at 01:47:07
ところでホリエモンは、最初から情動=人間関係に振り回されないのだろう。いわば嫌な奴だが、それが憎めないのはなぜなのか。ちょうどウィトゲンシュタインですら途中から転回するものが、ハイデガーでは予め転回していた、ということを彷彿とさせる。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 01:30:52
情動論というとドイツ哲学のトラウマとなったスピノザを連想するが、情動論は先駆的決意性では払拭されない。情動論から気分論への論理的=形式的払拭はどのように起るのか。それがハイデガーの母親の喪失のように思えてならないのである。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 01:25:40
そして、この先駆的決意性によっては語り得ぬ時間をめぐって、根本気分が語られるとき、嫉妬など人間関係により束縛する情動論が全て払拭され、情動論に対する気分論という、ハイデガー特有の論理学が成立すると言っても過言ではない。
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posted at 01:23:23
カント書以後の形而上学批判期で、2つの事柄を弁別し、それを一挙に語る気分の話になるのだが、『存在と時間』ではそれを一挙に語るはずの第二部に、どうしても入っていくことができない。つまり語り得ないのだ。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 01:21:48
未完問題とは、ごく当然のことを一挙に語るための、順番を誤るということなのだ。順序性が誤謬していると一挙に語り尽くせなくなる。これが語り得ぬものなのだが、『存在と時間』、つまり先駆的決意性では語り得ていないのだ。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 01:19:22
ハイデガーの場合、主著の『存在と時間』は先駆的決意性で未完化してしまうのだが、その数年後の29年のカント書では、こうした不整合が払拭されているのだ。この間に、ハイデガーが母親をなくしているのは、大きいのではないか? twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 01:15:17
しかし、歳とると時間が短く感じられるのは、人間関係というより、若い頃にある親との心理的葛藤が払拭されるからよね。多くの人は自分が親になるし、親にならないでも、自分の親が他界してしまう。そうなると一気に停滞していた時間が動き出すのだろうか?
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posted at 00:11:01