大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年07月13日(金)
だから、イギリス人とそりがあわないんですねw RT @harada_nobuyuki: そうそう、フランス人は幽霊を信じない。だから日本の「事故物件」の告知義務の話を聞き「それは法律にお化けの可能性を明記したのかい」と笑われた。確かに現代は死者が築いた文明の集積だし、
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posted at 06:21:19
メルロポンティ『知覚の現象学』序論のスピノザ言及。スピノザは否定しないが、それを隠れて使う主知主義、つまり意識を物と扱う心理学、経験主義を批判しているくだり。意識があるという明証性のスピノザ的最大値ですら、物ではない。 t.co/EozzRr6R
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posted at 19:36:46
メルロポンティ、たいへん弁証法的だが、何かを言うために何かを言う時の、その「言うための何か」の方が辛うじて分かれば、さほど難読な文とは思えない。それを言うことで何を言おうとしているのかの方は、全部読んで分かるかどうか(言えているかどうか)だが、詩の作品という話すらあるからね。
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posted at 19:46:34
アウグスティヌス、トマスアクゥナスの中世スコラ哲学と違って、デカルト以降、明証性とは、自分に意識が実在するのを、打ち消せないが、それを他人に伝える方法がないということで、スピノザはひとつの徹底だが、それを不徹底にすると、意識をひとつの物のように捉える、心理学を生み出してしまう。
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posted at 19:49:43
だから要するに、魂があるかのように思えて、それを自己言及的に否定できないことが、明証性と捉えるべきだが、それを不徹底にすると、魂のように意識を物体的に捉えて、科学的心理学になってしまう。スピノザのような徹底は批判の余地がないが、隠れた不徹底(心理学)はひどい、と批判している。
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posted at 19:53:09
t.co/EozzRr6R の続き。意識があるという明証性に対してスピノザのように徹底しないと、それ(神)をこっそり使用して、意識を物体のように捉える、科学的心理学になってしまう。という箇所。 t.co/xZQ0eXHi
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posted at 19:58:43
2012年07月14日(土)
おお、兼高かおるさん、島持ってて、私の名前ね(^-^)/ 「マーシャル諸島に自分の島(カオル・エネ)を持っている。これは観光化がブームとなっていたときに現地の大酋長の相談に乗ったお礼としてもらったものであった。ちなみにカオルとは、現地の言葉で「美しい」という意味だそうである。」
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posted at 01:08:47
2012年07月15日(日)
メルロのデカルト省察言及t.co/UGleN8UX t.co/n6OD2c8r の続き。自分がいるという存在の知覚をデカルトは神で証し、心理学も同じ独断だ。t.co/LyQNmAW3
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posted at 14:44:23
純粋感覚は構成されたものだが、知覚は存在の原初的認識(自分がいるという存在の知覚)であり、それが心理学の言う感覚を構成できるのは、なにもデカルト第四省察のように、神を要請して再構成するのではなく、存在の知覚ないし思惟があるからだ。 t.co/IVKYZta4
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posted at 15:25:56
存在と本質の結合(自分がいるという存在の知覚の統合、心身一元論)が、神によってではなく、デカルトにおいては経験によってなされていない、というメルロポンティは堂々巡り(デカルト的循環の内部)にしか見えないな~。 t.co/8F4tMIQD
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posted at 15:48:43
まあ、ここは経験論に対した主知主義を批判してるから、単に相対的にデカルトにあるのは神の要請による再構成で、ないのは経験による存在の知覚の結合と、なるだけなんだろうけど、相対性=対立項の定立(呈示)が下手ね。(^-^)/ QT: t.co/Fcgnrkwa
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posted at 15:54:20
知覚は経験的な二次的知覚ではない、とデカルト省察の言及した直後に、恒常性仮説批判に戻り、それらは意識にとっての標識(デカルトでは神による信憑性)ではなく、今度は知覚は悟性と異なり逆さまの図形を認識できない、と幾何学に戻ってしまう。
t.co/tC5YwNIa
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posted at 16:18:57
國分氏の脱構築的スピノザをみただけに、この知覚の幾何学への遡行は、幼稚にすら見えてしまう。スピノザでは本質と本性を切り分けたことで、定理8以降、神の幾何学は証明対象から外され解決されてしまうのに、メルロポンティは二次的知覚ではない知覚を幾何学的に証明する循環に再帰したいかのよう。
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posted at 16:23:28
確かに心理学に哲学が職を奪われ、自分がいるという存在の知覚が危機なのだとはいえ、またデカルト的幾何学に遡行する幼稚さは、まだ大人になれないの?ってみえちゃう。メルロポンティ可哀想(^-^)/
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posted at 16:28:24
2012年07月17日(火)
ここの対立項は、悟性(による説明)VS反省。心理学は逆さまの視覚が認識できるのを悟性の働きと説明するが、眼球麻痺の人が動かない目を動かそうとすると、視界が移動する錯視になるが、それを反省すると知覚に動機があるという。 t.co/8Tk1SdN8
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posted at 18:12:15
次の章で序論の結論だが、心理学が傍観者になり、主体を悟性でしか説明できないように、科学が、知覚(自分がいるという自分にだけ判明な実感)を度外視していることが、徹底して批判されるらしい。 t.co/LsMEFwOc
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posted at 18:24:21
現象学は、これでもかと近代科学が奪った主体性を問題にするけど、近代科学ってデカルトの方法論だからねー。そういえば攝津氏が面白い言い方してたなー。t.co/HA103b4A 「神が恣意的に自然法則まで変更できる、と考えたのは、私が知る限りデカルトだけである」
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posted at 19:30:27
攝津氏「デカルトのラディカルな発想は、『省察』などにおいて、数学的な真理や自然学、今日の言葉では物理学とか自然科学の法則さえも神に依存しているとみたところである。さらに、彼の連続創造説というのは、世界、特に物体的な世界が瞬間瞬間、神の協力によって維持されている、というものである」
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posted at 19:42:33
最近読解塾で、心身二元論としての近代を教えるのに、魂は西欧では中世にはなかった。おそらく自己意識は(今で言う動物霊のように)神と合体していたのだが、デカルト以降科学がそれに取って代わり、各個人は自己意識=魂になった、みたいな言い方をするようになってしまった。
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posted at 19:46:15
もちろん、心身二元論は、ただ自分という意識があるという実感のことでしかないのだが、おそらく科学がデカルト的神に合体した後は、そういう自分がいるという実感を、客観的に言い表して共有する困難が自覚された、という程度のことなのだろう。
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posted at 19:48:37
t.co/WNe7xBUT それゆえ自分がいるという実感を、うちらがいるのように、簡単に相互承認しあえるとおもっている日本の共同体的心情からは、絶対に科学的客観性への根本的な批判は生まれてこないわけよね。
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posted at 20:23:02
今またシュタイナーBOTが悟性とかいってたが、メルロ『知覚の現象学』序論も、ヘーゲル的な悟性の批判だらけだ。科学は心理学を派生するに及んで、主体に対する傍観者になってしまった。そこではあらゆる主体の問題が悟性と片付けられている。結果として、実感としての身体が、抑圧されている。
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posted at 20:52:57
2012年07月20日(金)
2012年07月21日(土)
(メモ)感覚を経験論のいう性質と区別すると、古典的諸哲学が反省から見失った連合を取り戻し、カント主義が拡大した悟性から反省を取り戻し、感覚の身体への照応という反省によって、印象や実存から、世界湧出としての知覚という現象の核心を取り戻せる。 t.co/C3Ueuj38
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posted at 18:55:39
メルロを読むつもりなかったんだけど、元々私は、存在の知覚(自分がいるという実感や自分が愛されているという感覚)は、ビジュアル(見る主体になること)とは相容れないと執拗に言ってきただけに、全部視覚に呑み込んで、科学が形骸化させた存在の知覚を取り戻そう、というのは、説明にしか見えん。
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posted at 23:34:17
t.co/bkIBLanr メルロ知覚の現象学序論4現象野。感覚を科学は経験論で性質にしてしまうが、それは存在の連合(自分がいるという主体性の記述=一個の存在の知覚→一個の存在の系譜学)を、悟性として保留(省略)するという、カント主義の偏見に過ぎない。
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posted at 23:43:25
西欧の文脈で、哲学と科学は、一方は存在するという実感を探求し、他方は、それを省略して宇宙の統一理論を妄想する、という戦争でしかないので、あらゆる言説は読む前から了解可能だが、問題は両者とも方法論がない話で、どう方法論に言及するか、しか面白みがない。西欧なんてそんなもん(^-^)/
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posted at 23:59:48