大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2015年08月07日(金)
リトさん、カント講義書(ハイデガー『カントの純粋理性批判の現象学的解釈』)の見取り図は、このあたりを道標にすると、掴めるはず。(^-^)/ twitter.com/sunamajiri/sta... @LitoSnowfield @estei_st
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posted at 06:46:18
カント講義書は主著(存在と時間)とは違い、本来性などハイデガー用語が最低限だから文が読みやすいのだが、あえて本来非本来で見取り図にすると~ (続く) @LitoSnowfield @estei_st
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posted at 06:52:18
カント講義書とは、根源的直感(カントの言う神の能力)を持たない有限者は、カントの言う再生的想像力では通俗的時間規定だが、本来的時間規定からみれば、生産的想像力を有していることになり、それが自然と歴史という超越論の根源規定だという話。@LitoSnowfield @estei_st
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posted at 06:55:07
体系に触れようとする本だから、いくら主著のような悪文ではないとはいえ、見取り図がないと、何を読んでいるのか迷子になるよ。また体系的だからこそ見取り図が可能なのだ。@LitoSnowfield
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posted at 07:03:04
人間はカントの言う根源的直感(神の産出力)を持たないが、カントが想像力(構想力)を再生的綜合(過去の想起)と規定したのに対して、本来の時間規定からは、生産的想像力(既在と将来の等根源)だ、というのが講義書。それがカント書の有限性の話に解消していく。@LitoSnowfield
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posted at 07:09:26
カント講義書は主著以後なので主著の用語で綜合できるが、本来性というのは時間規定のことだから、カントが人間(派生的直感)は神(根源的直感)ではないとするために、想像力を過去の想起としたのは非本来的な時間規定で、生産的想像力こそ本来の時間規定だ、という。@LitoSnowfield
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posted at 07:33:14
有限者は神のように認識対象の造物主ではないが、対象を同一視する認識論は、カントの言う再生的想像力=いわば想起では、対象がすぐに過去に過ぎ去るので、時間規定としては不十分。すぐに現在化する将来の同一性を時間規定にする存在論であるべきだ、という話ね。@LitoSnowfield
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posted at 07:33:39
したがって、想起や流れ去る過去だけを時間規定とするカントの認識論では、存在論的には造物主が前提されているに過ぎない、というのがハイデガーの主張。人間が将来に同一化する存在論によってはじめて、造物主を前提としない、過去に縛られない時間規定が得られる。@LitoSnowfield
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posted at 07:39:54
この過去にとらわれるな、前向きに未来を見ろ、というのがポジティブシンキングのようで、未来とは死のことで、その死を恐れず受け入れろ、というのが日本人が過去に陥った総玉砕みたいな危険思想に聴こえるのだろう。しかし過去にとらわれるのは単なる信仰だという。@LitoSnowfield
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posted at 07:42:00
ハイデガーをデカルトからアリストテレスに遡行したと一面的に捉えると、日本の柄谷行人のように、デモクラシー以前のイソノミアに遡行してしまう。しかしじつは、ハイデガーこそ、デカルトが権力を通用させた無規定性を最終的に解消し、最も非ギリシャ的なのではないかと思える。@inja650rr
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posted at 18:46:39
2015年08月09日(日)
それは面白い解釈ね。ハイデガーは転回前(カント書まで)は、オイディプスに明示的ではないが、時間が心であるのはオイディプスロマンスだからですね。それゆえ歴史も心になる。@inja650rr タイムスリップの概念がスタトレでは時間軸でBtFが因果律であるという事ですね。
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posted at 01:46:45
ハイデガーの言う時間という心は、オイディプス的なリヴィジョンのことなのだけれど、東の問題的な今年のインタビューでの結論部は、修正主義こそ(ハイデガーの言う生産的想像力で)、それが必然性という意味だ、というもの。twitter.com/sunamajiri/sta... @inja650rr
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posted at 02:20:15
2015年08月11日(火)
2015年08月13日(木)
駅前の小さな書店、人文書新刊書充実してるのだが、たまたま立ち読みしてたら、カントが晩年、動力学として、脳理論である生産的想像力(構想力)の超越論的時間地平に、霊魂論として触れているとか、書いてあるので、何じゃ?と思って買って来たww www.amazon.co.jp/%E3%82%AB%E3%8...
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posted at 01:30:36
帰って検索したら、こんな論文もあるね。菊池健三『カントと動力学の問題--魂は動力学的な、潜勢的な現前の関係にある』 ir.acc.senshu-u.ac.jp/index.php?acti... 面白そうだが、眠いので明日読む(^-^)/
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posted at 01:37:56
さらっと立ち読みして判るのだが、カント以前に自我のように、身体のどこに魂が宿ってる=顕在化してるのか、という潜勢論だった形而上学を、トヘン(一なる全体)としての時間を規定にすれば、心身問題ではなく、より直接に問えるでしょ?という話なのだけれどね。
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posted at 02:23:26
問うためには、規則の規定が、自我のように無規定では、魂の局在性や心身二元論のように、問が無規定になるが、一なる全体としての時間を規定とすれば、形而上学を魂の動力学として、明示的に問い得るようになる、ということを言っているにすぎないのだ。
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posted at 02:25:38
菊池氏は、時間規定に関してのハイデガーの発見を自明のものとしているが、それはカント自身が、問うためには規定が絶対化されなければならない、という問題を扱っているからで、なおかつハイデガーも規定はこれだろ、というところまでで、その規定によって問えたものの、答えについては言明しない。
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posted at 02:28:15
本来形而上学は魂を問うものだが、それが所在論(潜勢性を問うこと)に閉塞してしまった。それが自我という無規定性で判明したので、規定を絶対的な全体である時間に措定すれば、本来の問が適正化され、魂を身体への顕在性ではなく、魂の非顕在性を問いとして立てることができる、という話に過ぎない。
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posted at 02:33:52
自我のような無規定で、魂を問うと、身体のどこかに魂が潜在化(潜勢というのが厳密な術語なのだが)していることになり心身二元論(ハードプロブレム)になって解決できなくなるのだが、一なる全体の時間を規定として問い直せば、魂そのものを問うことが出来る、それがカントの問題だ、という本。
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posted at 03:38:02
菊池健三は一見すると、ハイデガーのカント書を自明化しているが、それでもハイデガーが規定は時間でしょ?というが、その規定で問えることを具体的に語らず、うやむやにしている、ハイデガーはカントがうやむやにしているというだけなのに対して、(続く)
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posted at 11:56:36
この本は、カント書のいう生産的構想力=時間規定が、アリストテレスの言う霊魂を規定とすることで、デカルトの自我だと無規定で問えないが、一性を規定とすると、身体のどこかに宿っている魂という旧来の形而上学の矛盾が修正され、魂そのものを語った晩年までのカントに接近できる、と論じている。
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posted at 11:59:26
つまり、アリストテレスを規定とするのか、デカルトを規定にするか、なのだが、むしろデカルトが規定にされることで、アリストテレスが有耶無耶にした形而上学を、判明に魂の問題として語ったのがカントというようなこと。ハイデガーはその一歩手前、事象の一歩手前まで語れている。
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posted at 12:00:53
魂を身体への潜勢(身体のどこかに魂が局在的に宿っている)とすると、心身問題となって、当然、そうしたハードプロブレムは論証も実証もできないので、魂が否定されるのだが、それは問題の規定の仕方を間違えている、というカントの一番の大枠を論じようとしているようだ。
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posted at 12:02:54
単にフルートの正規の音色を破壊するのがジャズではなく、正規の音色でもフルートはジャズの停滞をぶち破った立役者なんですよ。@mizekurumi フルートは綺麗な音色だけでなくジャズに適している楽器である事を理解しました😃💕ドルフィーは天才♥
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posted at 15:46:57
2015年08月14日(金)
西田の文献学を批判する準備は全くないが、単に心身問題に聴こえる。要するに、神を前提とした自我の無規定性が、他者承認の弁証法を要請しているだけで、形而上学という霊魂の問いに対する規定が脆弱であるように聴こえた。問が立っていないのだろう。bit.ly/1Jg92Cl
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posted at 10:58:54
立花隆がNHKで、デカルトのコギト・エルゴ・スムの規定から霊魂の不存在を科学が証明できなければ安らかに眠れないと、しきりに語る twitter.com/sunamajiri/sta... のだが、それと共鳴して聴こえる。そもそも形而上学を、諸科学が証明したりしなかったりできるわけがない。
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posted at 11:11:56
2015年08月15日(土)
アメリカ人がいう合理性というのは端的に宗教のことです。理性というのは日本人からみれば宗教のことでしかない。このように理性を批判する能力がない、という点で日米が意気投合するのは無理からぬことなんでしょう。@mizekurumi アメリカが合理主義の限界を自覚~ @inja650rr
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posted at 12:54:54
日本から見るとアメリカが西欧の文化圏に見えてしまうのだけれど、単に理性を批判するかどうか、という二択しかないのです。反知性という点で日米が意気投合するのは、理性を批判する能力を喪失したから、という消極的な理由で、文化という積極的な共通性ではないはずです。@mizekurumi
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posted at 13:07:22
そこが先程のアメリカ人が自覚的だ、というところでしょうね。理性というのは端的に経験できないこと、実証はできないが明証できることです。文化的にアメリカは宗教があるのでその混同に自覚的だが、日本ではその混同に翻弄されるんでしょうね。だから日米は互角ではない。@mizekurumi
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posted at 13:24:07