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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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  • 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
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2015年08月05日(水)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月5日

デカルトの我では生命や生物という眼前存在に実体化してしまうが、眼前ではない手許があり、しかも領域の手許に時間がある。コギト・エルゴ・スムではなくエゴ・サム・コギタンスのように、我とは時間である、という。それが無規定性の解消、つまり歴史だというようなね。@estei_st

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posted at 02:45:21

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月5日

無規定性=超越論的仮象では、歴史は事象そのものではない。それは我を実体として捉えさせるデカルトの眼前化=延長によって通俗時間を齎した。だからこそ、スピノザではないがエゴサムコギタンスとして、我を領域(延長)ではなく、時間と措定(規定)しなければならない、という。@estei_st

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posted at 02:53:35

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月5日

このあたりで、アインシュタインの同時性を批判したベルクソンを、時間とは存在論であると評価したドゥルーズとデリダの違いに思いを馳せるが、それはとりもなおさず、ハイデガーがカント書で証明した、無規定性=仮象=延長の解消、時間であること、という志向性でしょう。@estei_st

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posted at 02:57:28

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月5日

『存在と時間』の「存在一般の意味への問(あるいは仮象でない事象性=歴史)」を補完的に表明する『カント講義書』~『カント書』は、twitter.com/sunamajiri/sta... で要約したように、無規定性批判=図式論を軽視した新カント派と、生の哲学批判のようです。@estei_st

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posted at 03:05:54

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月5日

『カント書』はシェラーへの追悼ですが、主著の習作のように頓挫した『時間概念の歴史への序説』が、シェラーとベルクソンの生の哲学を、フッサールから批判していく時に、カントの時間を、アプリオリ=規定として見出す脈絡が、だらだらとだらしくなく綴られてますね。@estei_st

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posted at 04:30:19

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月5日

『時間概念の歴史への序説』の頓挫ぶりは『存在と時間』より悲惨。数学=外時間、神学=超時間に対する、アプリオリ=現実時間という図式を予告しながらも、イデア視に対するアプリオリというカントの現象学化のように終わる。www.amazon.co.jp/review/R368U2G... @estei_st

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posted at 04:30:59

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月5日

『存在と時間』の破綻は、内的必然性であり権利問題ではない、という最近の若手の評価、言い換えると、カントの無規定性批判の規定化、あるいはメタボレーという評価で、若手が注目すテクストが『論理学の形而上学的な始元諸根拠―ライプニッツから出発して』。@estei_st

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posted at 04:31:24

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月5日

来週若手の『始まりのハイデガー』という叢書が出るそうだが、若手は、主著のような破綻に従来の権利問題ではなく、内的必然性=メタボレーを見てますね。丸山文隆のカント書論も、『始元諸根拠』に内的必然性を見ている。www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf... @estei_st

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posted at 04:31:51

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月5日

このように、ハイデガーは破綻的なのかメタボレーなのか、というと後者だというのが最近の傾向のようだが、それはとりもなおさず、規則に先立つ規定は、超越論的仮象ではなく超越論的規定であり、権利問題ではない、というハイデガーの主張が理解された、ということなのでしょう。@estei_st

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posted at 04:32:24

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月5日

この破綻ではなくメタボレーだというのは、@estei_st さんの twitter.com/estei_st/statu... にある、明示的ではないが、時間を通俗化するのでは、我々有限者の死を顧慮した時間=歴史の明示に至れない、ということなのでしょう。@estei_st

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posted at 04:33:40

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月5日

この twitter.com/sunamajiri/sta... 言い方なら、有限者を無限化する時間の無規定性は、神の視点を法廷で裁くような権利問題というカントの比喩でしかなく、そんな方便では、いわば事実としての無限を規定する時間というハイデガーの読解には至らない、という。@estei_st

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posted at 04:41:05

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月5日

もっと、通俗的に喩えれば、復活願望のように、まるで来世に希望を託し現世を抑圧するような人生では、死ぬに死ねなくなるぞということであり、それが近代の時間の通俗化によって孕まれた、というところで皆さん、面白がっているんでしょう。@estei_st

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posted at 04:43:28

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月5日

比喩が何の比喩なのかが規定されなければ比喩ではなく破綻しメタボレーしない。カント書は、一文で訳すると、有限性のヒューマニズムからの回復の書、つまり暴力なのだが、それを齎したカント講義書では、権利問題というカントの比喩が徹底的に時間規定の問題に分解されていた。@estei_st

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posted at 05:06:14

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月5日

この権利問題という比喩は、時間を規則の規定とするための比喩だという、ハイデガーが暴力と名付けるものが、カント書の後半では、回復と名付けられる。そこでは、人間とはなにか?という命題の内的必然性が、すべて時間規定の問題に解体されていた。つまり暴力ではなく回復。@estei_st

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posted at 05:08:21

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月5日

戦後はヒューマニズムが再興してしまう。それはハイデガーがカントの権利問題という比喩を時間規定に解体する暴力を「ヒューマニズムからの回復」と『カント書』で命名してしまっているからでしょう。それでメタボレーである比喩の規定を戦後は失くし換喩しかなくなってしまった。@estei_st

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posted at 05:13:15

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月5日

ちなみに、この時間規定という暴力を回復する、というカント書の命名の仕方、従来の邦訳では回復ではなく「反復」と訳語があてられていたのだが、なぜ戦後に、ハイデガーの言う時間への回復ではなく、ヒューマニズムへの再興(反復)が起こったのかも、示唆的に思えました。@estei_st

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posted at 05:15:08

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月5日

これほど、カントの図式論の規則の規定は時間である、という問題は暴力的なのでしょう。比喩だと思いたいほど。人間を時間的有限者だという規定を、新カント派などは、無限なヒューマニズムの比喩だと興奮するのです。その無規定=矛盾が容易に判明になるのがハイデガーですね。@estei_st

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posted at 05:22:37

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月5日

つまり、より端的に、戦後信じられているヒューマニズムなるものを、否定的に批判するとすればそれは、戦前、ハイデガーがカント書で至った、ヒューマニズムから有限者を取り戻すという回復=暴力の問題、暴力=カントの時間規定の問題を、再度隠蔽する、という概念なのでしょう。@estei_st

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posted at 05:27:32

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月5日

日本の戦後も個人主義どころか、闇雲な権利とヒューマニズムを主張するモンスターが蔓延してるんでしょうが、これも戦前ハイデガーが「暴力」と名づけなければならなかった、カントの規定=時間が、戦後の現代思想で暗号のように見えづらくなり、混乱や病理に陥っただけでしょうね。@estei_st

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posted at 05:38:53

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月5日

黒ノート刊行で、ハイデガーの反ユダヤ主義が、人類最悪の思想と批判されてるようだが、ハイデガーのヒューマニズム批判=暴力というのは、カントの「時間が歴史の規定だ」という暴力のことで、むしろ私達の感覚からは、それを否定するヒューマニズムの方が暴力的に見えますね。@estei_st

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posted at 06:08:28

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月5日

ツイッターに呼んだら、この時代のカオスをハイデガーとカント読んで乗り切ろう、という夏バテ回復の話みたいのしてて、パニクったでしょ。それ twitter.com/sunamajiri/sta... から twitter.com/sunamajiri/sta... @hifumi21092135

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posted at 06:21:53

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月5日

このFBの下半分 www.facebook.com/kaoru.ohmoto/p... 簡単にいえば西欧人は終末論者だけど、私たちは、そういうものからは自由よね、という話です。@hifumi21092135

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posted at 06:23:31

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月5日

時間を規定とするカントの暴力をヒューマニズムから奪還するカント書のいう回復が、戦争で暴力的にヒューマニズムに頽落させられたので、カントの暴力的な時間規定を戦後こそヒューマニズムとして回復しなければならないという転回以降が、だからこそ反ユダヤ主義であるはずがない。@estei_st

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posted at 06:36:31

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月5日

若手がもうすぐ『始まりのハイデガー』を出すが、私のハイデガーの転回はカント書の暴力=歴史は時間を規定とする、という命題の回復で、反ユダヤ主義ではない twitter.com/sunamajiri/sta... という方が、最新知見になりかねなかったりして。笑 @LitoSnowfield

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posted at 06:54:13

りと ᙏ̤̫(3さい) @LitoSnowfield

15年8月5日

@sunamajiri ハイデガーを単なる反ユダヤ主義と見るとしたら見落とすものが大きそうですね〜(*uou)>

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posted at 07:55:31

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月5日

ハイデガーは単純に反ユダヤ主義なんていうのは、ガス室はなかったとか、原爆は罪ではないとかいうよりひどい陰謀論よ(^-^)/ @LitoSnowfield ハイデガーを単なる反ユダヤ主義と見るとしたら見落とすものが大きそうですね〜(*uou)>

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posted at 08:32:17

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月5日

「私家版ハイデガースタディー07 カント書の有限者の回復」をトゥギャりました。 togetter.com/li/856740

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posted at 10:19:37

三島由紀夫bot @MISHIMA_ESSAY

15年8月5日

フロイトは中学生のころ私の座右の書であったが、今この「芸術論」を再読してみて、カントが芸術にぶつかって「判断力批判」で失敗したように、フロイトも芸術でつまずいて、ここで最もボロが出していると思われるところが多い。-フロイト『芸術論』-

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posted at 16:47:00

りと ᙏ̤̫(3さい) @LitoSnowfield

15年8月5日

冒頭文ナイス〜(*^o^)v .@sunamajiri さんの「私家版ハイデガースタディー07 カント書の有限者の回復」をお気に入りにしました。 togetter.com/li/856740

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posted at 21:19:57

2015年08月06日(木)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月6日

そうそう。自我という無規定より時間という規定だというハイデガーのカント書の有限者の回復というのは、一言で言うと、自分探しなどするな、というようなことだからね(^-^)/ @LitoSnowfield 冒頭文ナイス〜(*^o^)v togetter.com/li/856740

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posted at 06:44:07

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月6日

有限者であることを取り戻すためには、自我という無規定ではなく時間を規定として歴史化すればいい。そうすれば無規定な自分探しなどというど壺に落ちることはない。言い換えると、人間や当為を一般論で規定するな、ということだが、やっと一人前になるという趣旨ね。@LitoSnowfield

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posted at 06:48:31

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月6日

この西欧文明の自分探しの原理的終結、時間を歴史の規定にすること、というハイデガーのカント書の暴力(有限者の回復)のインパクトはものすごいね。直後の第二次大戦というより、戦後、非西欧人が反動で自分探しして、ついに原理的に飽和してしまったから。@LitoSnowfield

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posted at 07:19:41

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月6日

デカルトの自我という無規定性=仮象は何なのか、それは時間という規定だ、という原理の発見というのは、ハードプロブレム(心身問題)という仮象が終結して、有限者がやっと安らかに死ぬことが出来る、ということだから、我々の感覚としてはごく自明なことなのに。@LitoSnowfield

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posted at 07:22:17

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月6日

もっとも、カント書ですら、カントの超越論的仮象が、デカルトの自我の無規定性だと、明記的になっているわけではない。そこにカントの動揺ならぬハイデガーの動揺があるのかどうかは、研究者の意見が分かれるところだろう。しかしカント書では、超越論的規定性を言明している。

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posted at 07:25:20

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月6日

しかし、自我という無規定性を、人間などという一般的な概念で規定するな、というのは、一般と個別の脱弁証法のような営みをするユダヤ教のラビのようだ。無規定=仮象を、人間という仮象ではなく、時間という規定=現象に解消するという、カント書が、極めてヘブライズム的に見えるのは事実だと思う。

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posted at 07:28:50

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月6日

そのハイデガーの親切を読めない柄谷行人が、ハイデガーをデカルトの自我に固執するアーリア人、カントをセム的と一面化させて、トランスクリティーク(ハイデガーに対する超越論的批判)するのよ。@LitoSnowfield

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posted at 08:00:49

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月6日

アーリアとセムという二元論に走るあたりで、内田樹に反知性主義といわれてしまいそうだが、柄谷行人は。セムというより、コギトを実体的に読む仏教の間違いか何かだろう。仮象=無規定=部分と、現象=規定=全体ということを、彼は度外視してしまう。@LitoSnowfield

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posted at 08:02:52

りと ᙏ̤̫(3さい) @LitoSnowfield

15年8月6日

@sunamajiri “時間が規定…”という辺りで、何かあると察知できないと読めないのかもですね〜(*^o^)>あはは

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posted at 08:07:56

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月6日

おそらく、時間が一なる全体(一性=トヘン)だから規定だ、というハイデガーの論述を読めていないか、まさか一なる全体の話ではないと、柄谷行人は高を括ってるね。だから読めない、つまり自我という仮象の探求を彼はするね。彼の言う単独者は書き手になることだしね。@LitoSnowfield

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posted at 08:22:44

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月6日

柄谷といえば取り柄は乱読なのだが、彼は読み手として誠実ではないというだけなのだろう。全体より単独者だというのだが、そこには、一性は神のことで、そんなものは存在しないのだから、時間は部分のことだ、という誤読が介在しているように見える。@LitoSnowfield

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posted at 08:24:36

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月6日

時間が一性だから、神の視点でなく有限者の視点が得られる、というハイデガーのような単独者論を、柄谷行人は有していないということになる。柄谷にとって一なる全体はあくまでカントの図式論の言う規則に対する時間規定ではなく、単なる形而上学的な神のことなのだろう。@LitoSnowfield

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posted at 08:27:50

りと ᙏ̤̫(3さい) @LitoSnowfield

15年8月6日

@sunamajiri ああ〜…なるほど(・o・)> <“一性=全体=神”という誤読

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posted at 08:39:11

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月6日

そうそう、柄谷行人は全体=神という形而上学だね。それに対して全体=時間というハイデガーは、書き手などにならず、普通に有限者が安らかに死ねる、という話をしているのだが、それを受け付けず、柄谷は書き手として死後も不滅でありたい、という欲望の権化なのだろう。@LitoSnowfield

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posted at 08:42:40

りと ᙏ̤̫(3さい) @LitoSnowfield

15年8月6日

@sunamajiri まさに自我の無規定性の発露(*^o^)>あはは

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posted at 08:43:20

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月6日

無規定でしかない(書き手という)自我になりたいために、形而上学に走ってるね。図式化=概念の規定は全体である、という超越論性を、彼は神のことだと短絡しているようだね。それで自我という仮象になってしまう。彼の言う書き手というのはそういう意味だろう。@LitoSnowfield

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posted at 08:46:02

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月6日

それで判るように、ハイデガーは書き手として最悪なのだ。書き手というのは無規定な自我を無規定なままに振る舞う態度のことなのだが、ハイデガーは態度決定というこというために、歴史の規定は時間という全体である、という態度表明をするから書き手として最悪なのだ。@LitoSnowfield

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posted at 08:50:50

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月6日

ハイデガーが悪文のお手本のようになるといえば、@estei_st さんの twitter.com/estei_st/statu... を拝読。例のナチ絶賛のように読まれる74節に至る箇所についてだった。@LitoSnowfield

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posted at 21:05:27

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月6日

実は前半読みやすい高田珠樹が、このあたりになると読みづらくなる。前半な文意で換言できていたのが、後半になると用語の新訳だけで、読みづらい、それでもその箇所は訳注で、こんな感じ。@estei_st さん pic.twitter.com/kk6Dwo2JsM

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posted at 21:26:52

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月6日

歴史が個々人による偶然の継起ではなく運命だというのは、単純な歴史的過去、つまりカントが最終的に依拠した通俗的な時間規定によっては、等根源性としての既在と将来という超越論的時間規定、すなわち本来の歴史と自然の事象性に迫れない、という話の箇所よね。@estei_st

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posted at 21:31:10

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月6日

今は過去で将来は今だという時間を規定とする話なので、言い換えちゃうと、民族の命運も個々人の偶然を規定とした産物ではなく、脱自する運命が互いにいわば共鳴しあうことで、民族や世界歴史なども生起する、といったような話で、これを短絡したらナチズムになるのかしらね。@estei_st

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posted at 21:39:26

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月6日

むしろ、終末論やニヒリズムとなるような通俗的な時間解釈を非本来性の彼方に追いやるために、後半は終末論とは何かを、悪戦苦闘して語っていて、高田訳のような訳し方になると、なおさらぶっ飛んだ悪文が目立つ印象だ。詩だと思って読めばいいのだが。@estei_st

タグ:

posted at 21:44:12

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月6日

ハイデガーがカント講義書では、カント用語で本来の超越論的時間規定を立証するのだが、存在と時間ではデカルトとカントの対象などの用語を避けて、実存範疇の話になり、本来的=超越論的時間規定としての歴史と自然の話になるようだが、後半は高田訳より @estei_st さんの方が読みやすい。

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posted at 22:00:41

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月6日

高田珠樹が「先駆的決意性」を「先駆ける果敢さ」と単語訳するのは、つらいものがあるのだが、要はハイデガーの転回後に決意性が不要になるように、非本来性=通俗的時間規定も、超越論的時間規定によって不要=本来化するので、カント書以降にメタボレーする、というのは頷ける。@estei_st

タグ:

posted at 22:04:44

estei @estei_st

15年8月6日

@sunamajiri 思い出しました、高橋巌さんのシュタイナーを読んでいて思いついたことをひとつ…シュタイナー哲学のキモは、それまでのドイツ観念論を継承しつつ、理性による存在の認識を超え、意思は(これまでにない)新たな存在を想像する力を持つ、というところにあると思いました。

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posted at 22:49:52

estei @estei_st

15年8月6日

@sunamajiri ひょっとするとハイデガーも同様のことを考えていたのではないか?つまり被投のうえでの企投、新たな価値を創造する、といったことの当時の表現がナチスへの期待だった、等。

タグ:

posted at 22:54:50

estei @estei_st

15年8月6日

@sunamajiri 面白いことにハイデガーもシュタイナーも、先人の哲学を引き受けながらも、解体し読み替える達人だったといえると思います。両者の生きた時期は重なっていますが、互いの哲学をどう評価していたのか、等。思いつくままに(すみません)。

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posted at 22:57:08

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月6日

主著と対照的にカント術語で語るカント講義書では、カントの言う根源的直感(自己原因の神の産出力)を持たない人間の派生的直感(対象を作り出さない認識)が、カントの言うカントの再生的想像力ではなく、生産的想像力を示唆していると、カントの可能性の中心を語るのです。@estei_st

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posted at 23:08:30

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月6日

カントが想像力を再性的能力としてしまったが、じつはそれは生産的想像力(構想力)bit.ly/1InXgCq ではないか、というのがカント講義書末尾の総括部、さらにカント書ではそれを有限的想像力を齎す超越論的時間地平と語るのです。@estei_st

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posted at 23:11:34

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

15年8月6日

ミヒャエル・エンデが、想像力の超越論性=産出力を、なんとかものそうとしてますよね。twitter.com/Michael_Ende_j... @estei_st それまでのドイツ観念論を継承しつつ、理性による存在の認識を超え、意思は(これまでにない)新たな存在を想像する力

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posted at 23:13:32

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