大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2016年05月10日(火)
それにしても、大雑把に取り纏めないと、見えてこないというのが困ったものだが、基礎存在論はほぼカントの被制作性の批判、そして基礎存在論を断念してそこからの転回は、ニーチェの被制作性への批判だよね。@estei_st bit.ly/1s5OyFK
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posted at 02:45:38
そこ(カントとニーチェの被制作性批判)からはどうやら、esteiさんのいうような魂という規定自体が問われたかどうかも定かではない、という問題が実は潜んでそうだよね。@estei_st bit.ly/1s5OyFK
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posted at 02:49:25
はっきりいえば、プラトンとアリストテレスの被制作性を相対化できても、デカルトの二重の我(あるいはカテゴリー誤謬としての我)が、相対化できないという、頭の痛い問題があるのかもしれない。それはどう思います? @estei_st bit.ly/1s5OyFK
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posted at 02:49:48
カテゴリー誤謬は、たとえば twitter.com/sunamajiri/sta...のことで、二重の自我というのは twitter.com/sunamajiri/sta... のことなのだろうが、そこからesteiさんのいうような問題は派生するものなのだろうか? @estei_st
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posted at 02:53:15
@sunamajiri はい。ええとですね、件の備忘の文脈で魂の表象について持ち出したのは何故だったのかよく思い出せなくなっているのですが(笑)、元々は何かを語る人が、その何か(「力」であれば力)を感覚を伴ったイメージとして把持しながら語っているのか否か、
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posted at 13:59:22
@sunamajiri といった疑問だったわけです。このイメージの問題は、生楽器音以前に、人間は音色というものを想像できていたかどうか、という疑問から派生したものです。自分がもう少し西欧哲学の各種概念に詳しければ、例えば本質存在と事実存在との関係に即して展開できるのでしょうが、
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posted at 14:02:08
@sunamajiri 今のところ文脈を連結できる気がしません。ところでデカルトの件ですが、一言でいうとハイデガーの存在論においても、「我」の存在に関する考察は看過されたままになってしまっている、ということでしょうか。
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posted at 14:04:40
@sunamajiri ということであれば、確かにそのような気がします。それで気がついたのですが、主著の段階から、誰でもないまさにこの「わたし」の問題は捨象されていますね。初めから現存在はいわば公共性を前提されている。
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posted at 14:09:13
@sunamajiri たまたま自分は、死の不安~現存在の歴史性あたりの流れを経験上腑に落ちるかたちで読むことが出来たのですが、多くの人は自分自身の死や生活と何の関連があるのだろうか、と感じると思います。話題が逸れましたが…
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posted at 14:12:51
2016年05月11日(水)
それが、ハイデガーがカントではニーチェの被制作性すら見破れない、という木田元的ハイデガー観でしょう。たしかに、デカルト以後の公共性では、魂より死が公共的だが、被制作性もまたそこでいう公共性のことだから。@estei_st bit.ly/1TP4STP
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posted at 03:19:19
このように、公共性とは被制作性のことであり、ハイデガーはそれをいかに相対化したか。それがデカルト~ハイデガーを被制作性と一括りにする木田元的なハイデガー観で十分なのか、というのが興味ありますね。twitter.com/sunamajiri/sta... @estei_st
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posted at 03:25:42
私は二元論=潜勢に対して、現勢と用語化してるのだが、その定立はそういう先措定のことです。身体としての魂は、表象なくしては思考しない。bit.ly/1CdgQ4Z @estei_st pic.twitter.com/uFCqnhk0h0
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posted at 23:07:32
ところで、たまたまTLに流れてきたのだが、こうした現勢という事態、あるいは芸術の生起を、このショーペンハウアー的な意味に解すると、文字通り潜勢としてのヨーロッパ文化になりかねない。彼らは制作してしまう。twitter.com/Schopen_bot/st... @estei_st
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posted at 23:25:41
そうであるよりは、twitter.com/ursprungbot/st... というように、ハイデガー的なパースペクティブでしか、現勢という事態としての芸術の生起は、把捉できないということなのでしょう。制作でも被制作でもないという。@estei_st
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posted at 23:26:36
2016年05月12日(木)
世界内存在というのは、その外部の視点、デカルト的な対象などないよ、ということですからね。外とか存在者の全体に対する外部視点とか、魂の客体化、そういう真理前提は言葉遊び(潜勢)だよ、という。@estei_st pic.twitter.com/fVFuMDaEyz
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posted at 21:28:42
「表象なくして魂は思惟しない」とは、フッサールのデカルトに対する範疇的直観の現象学だ、というハイデガーのテクストを、その解釈対象のアリストテレスの霊魂論とPDFにしておきました。bit.ly/1Okz7TN @estei_st
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posted at 21:28:57
真理前提(先措定)が、有限的な存在了解であることの内実なのだが、カントでは根源的直観=第一原因(造物神)が真理前提されているために、存在了解の無限性が起こらない、という細川カント書論も併読するとよいです。bit.ly/1pP4drO @estei_st
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posted at 21:29:38
ちなみに個人的にこの数ヶ月立ち往生しているのは、その細川カント書論の注釈11の引用元(GA2-436)が探せていない点です。そのページ数は存在と時間公刊部最終節のはずだが、誤植かしらね? @estei_st pic.twitter.com/68iq3PLSOq
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posted at 21:34:52