大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2016年05月15日(日)
続・ハイデガー読本のカント書論が、判断力批判の美に対する崇高という、構想力=時間を圧倒する瞬間論になっていて、圧倒されてて、頭がくらくらしてきたから、寝よう(^-^)/
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posted at 22:57:57
タカ基地さん、判断力批判の崇高(内的時間を圧倒する時間地平)の予備知識は、ネット探すとこれでいいでしょ。detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_de... @BeTakada
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posted at 23:43:48
2016年05月16日(月)
唯物論は素朴なほどよいね。 セリーナへの手紙: スピノザ駁論 ジョン・トーランド www.amazon.co.jp/dp/4588010433/... 「運動は物質に本質的」とスピノザを批判。宗教的支配の源泉にある魂不滅説を習俗的原因から解明、自然哲学から非物質的存在を排除、宗教的恐怖を打破する。
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posted at 08:58:31
近代の存在論的な迷妄というのも、存在論という最も論争的なものの根底に、霊魂不滅という根源的願望があることが見えなくなったことでしかないのだろう。図式が見えなくなるというのは、そういう根源図式が見えなくなり、概念が何の話題だったかが意味不明(ある種の頽落)になることだから。
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posted at 09:02:10
初期ハイデガーが構想力によってカントの被制作性を暴露し、後期以後のカント論では、構想力が無問答になり物自体が問えるのも、範疇的直観、つまり志向性によって、図式の根源、つまり論争の根が明確化したからに過ぎない。人は何を論争しているのか見えない時、誤った誤謬推論に陥る。
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posted at 09:09:40
さて、カントは如何に構想力から退却し、被制作性の存在論に陥り、そして如何に崇高により却って構想力を取り戻したのか。推論の図式根源を見ていかなければならない。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 09:19:34
2016年05月18日(水)
端的に、構想力(想像力)とは、思考(超越論する我)が、カントの言う総合判断をする際に、概念ではなく、時間を図式として作動させている様をいうのだが、それはカントが言うように空想や夢のことではない。それがハイデガーのカント論の発端。
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posted at 23:48:27
2016年05月20日(金)
ともあれ、今私が、 bit.ly/1TIiBcL で見立てようとしたのは、デリダ的に脱構築すると、ハイデガーのカント書の超越論的図式性だけが、脱構築されずに残る《まったき他者》という論旨。レヴィナスは見誤ってるのだが、ハイデガーを脱構築することはできない。
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posted at 12:27:56
なお、日本のカント翻訳は《暴力》を《威力》といわば意訳して転倒するのだが、それは暴力とは、まったき他者の存在のことであり、自己が振るう暴力の正反対の意味、つまり他者の威力のことだからなのだが。しかし、ハイデガー以後、それが存在論的暴力という論述の地平になっているということなのだ。
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posted at 12:31:54
だとすれば逆に、《暴力》は単純に《他者の威力》と言い換えて差し支えないのだが、従来のハイデガー読解は、柄谷行人のトラクリにおいてもなお、こうした構想力というカントが怖気づいた問題系を、他者の威力と措定することに失敗しているのだ。
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posted at 12:35:08
ちなみに、《暴力》というと、いかにも自己が自発的にする行為のように連想してしまうのだが、そうではなく、他者が自己に《威力》を発揮することだからこそ、それを《暴力的だ》と概念化しているようなもので、それを見誤らなかったのが、歴史的にハイデガーだけだ、ということが問題なのだ。
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posted at 12:43:20
たとえば、ハイデガー以外というと、フロイトでは、暴力ですら、自己が抑圧した無意識の捌け口で実行してしまうことだろうが、ハイデガーでは、カントの崇高と同じで、暴力とは他者が自己に対して発揮する威力のことでしかない。その違いは極めて大きい。
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posted at 12:48:04
その点でもレヴィナスのミスリードが万人受けするね。ハイデガーが死を一般化するのはカテゴリー誤謬だというわけだから。ハイデガーはアリストテレスではカテゴリーではない現実と可能をカテゴリーとしたカントを批判するために、死の可能性に言及するだけだが、死は可能性ではないと言い出したりね。
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posted at 18:43:41
2016年05月21日(土)
続・ハイデガー読本の中で骨太なのは、さすがに現代の大御所・熊野純彦「コラム・ハイデガーとマルクス主義」。サルトルや廣松渉の弁証法や物象化論が、故郷喪失・グローバリゼーションという虚無をもたらし、マルクスとハイデガーにある共通の可能性を回避している、と喝破している。
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posted at 15:56:45
理想社版『物への問い』訳者解説、面白かった。同書はカント書の続編らしいが、やはり、存在と時間=基礎存在論では、デカルトの我に対する時間の根源性だが、それでは原則論とならず、我に規定を戻すことで、転回できるようになる、ということね。bit.ly/1TlqvhI
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posted at 18:59:55
2016年05月22日(日)
カント書の図式論(自我より時間が根源的だ)は存在と時間(基礎存在論)のままで、原則論に達しない、という『物への問い』。訳者解説では、自我より時間こそ図式の規定根源だ、というだけでは転回が起こらない、というのが要約されていた。bit.ly/1TlqvhI
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posted at 08:20:02
たとえば、木田元的には、基礎存在論はカントの被制作性暴露だが、それだけではニーチェの被制作性暴露に転回できないということと、基礎存在論は自我に対する時間の図式的根源性を問題にするが、それだけでは西欧形而上学の被制作性暴露に達しないということは、同じことなんだろうね。
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posted at 08:21:32
ハイデガー読本の要約が分かりやすい。「コギトが主観にないものの言明を矛盾律とするが、カントの革命は矛盾律に代わる原則」を見立てたという要約。それをハイデガーが「図式論の成就としての原則論」(カッシーラ)としたのが転回だろう。 pic.twitter.com/NZbLUeDkjU
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posted at 08:32:32
転回とは端的に非歴史的な現存在の時間=基礎存在論から、科学を歴史的に見るような歴史への転回のことだ、というのは理想社版の訳者解説が分かりやすい。つまり、図式的に自我より時間が根源になるのは、歴史を度外視しているということなのだ。 pic.twitter.com/7iTPd9AgU1
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posted at 08:38:12
先日ヒュームのカテゴリー誤謬と超越論的構想力の話がでた twitter.com/sunamajiri/sta... が、解説で近藤功が同じ示唆をしている。デカルトに対してカテゴリー誤謬しているのは、ヒュームなのかカントなのかハイデガーなのか。 pic.twitter.com/9l23SROxY5
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posted at 09:21:49
2016年05月23日(月)
ひも理論ではないが、我思うという極点を措定してしまうと無という無限、つまり深淵と矛盾律となってしまうのだから、点の延長ではなく、時間という幅だとすれば有限や有、あるいは考える我(超越論的自我)を先措定できるが、今度は、時間(基礎存在論)=非歴史的となるということ。
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posted at 06:23:38
無時間=無限時間に対する時間(いわば有時間ないしは有限時間)は非歴史性であるという問題を、無問題=歴史化する懐疑的方法は存するか?というのが、言葉遊びにならないのが、ひも理論のような現代物理学というのも興味深いのだが、哲学的問いの方が遥かに深刻なのだろう。
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posted at 06:32:11
2016年05月24日(火)
続・ハイデガー読本、サルトルとメルロ=ポンティ-。サルトルがハイデガーに挫折するのは、存在了解がデカルト的な意識というフッサール的な拘りを捨てているからだが、ハイデガーが通過してしまった身体性を、ポンティーがその拘りによって受け止める。そういうピンポンが小気味よく纏められた一編。
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posted at 07:29:38
なお、今の要約のメイキングは、このチャットログ。bit.ly/1YT7ZM8 サルトルはハイデガーの構想力=時間を理解できずマルクス主義に意識の永遠を探してしまうが、ポンティは綜合によって永遠に無時間化することから、主体や意識を時間に取り戻そうとする。
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posted at 07:29:57
ちなみに続・ハイデガー読本のカント書論のように、時間とは判断力批判にある崇高、直感的総括であるならば、永遠を意識と捉えるのか、ある刹那の臨在(儚さのようなもの)を永遠と捉えるか、という2つの立場が仲良く対話をしているだけなので、事態はそれほど錯綜はしていない。それどころか単純だ。
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posted at 07:37:39
中嶋さんとのチャット bit.ly/1YT7ZM8 ではないが、フランス人はドイツ人以上に回りくどいが、それでもこうした総括を語るメルロ=ポンティ-の語りの仕方は比較的端的だ。ハイデガーより総括的なほどだ。 pic.twitter.com/CKrEUR8YWT
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posted at 08:27:00
2016年05月25日(水)
カテゴリー誤謬は、デカルトに対してイギリス人が屁理屈こねて、神の存在証明に戻りそうだから、カントがちょっと待ったって言っただけだからね。ハイデガーは、そこでカントがニュートンの永遠時間に依拠したので、それまたちょっと待ったって言っただけだから、現代は単純よ。@inja650rr
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posted at 19:58:51
文章を140字にすぼめるのでへんになったな。要するに、現代において、永遠時間と有限時間という、宗教の問題が加熱してしまう事態に立ち至っているというのは、じつはデカルト以後の哲学史的には寧ろ単純な事態だ、ということなのだが、もう一度ツイートし直すと・・・ @inja650rr
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posted at 20:28:31
カテゴリー誤謬というが、イギリス経験論者が屁理屈こねて神の存在証明に戻りそうだから、カントがデカルトの立場からちょっと待ったと言ったのだが、そこでニュートンの永遠時間に依拠したので、ハイデガーがこれまたちょっと待ったといっただけの話。だから現代は単純な時代。@inja650rr
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posted at 20:28:45