大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年09月21日(金)
その言い方では、神って分節じゃなく、意味(実体や存在という意味)の包摂。それは個人ではできない。神だけが真実といわれるのも、アニミズム的に名目に分節されるもの全てを、神という一語で包摂するから。@JM_is_alive 言葉によって世界を分節していったら「神」って必要なく
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posted at 04:58:11
カエルさんも神掛かってきましたね。この話(日本人が真実を捉え違える)という話をしはじめると、神掛かるんですよーw(^-^)/ @hirougaya 主観をいかに多数積み上げても、真実に近づくことはできても真実そのものに到達することはできません。真実は「神様の領域」にあるのです。
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posted at 05:19:19
リーマン予想に失敗した大数学者が、自分の美観に負けて、リーマンの直感である素数の美に到達しないで、素数は無意味だと暴言を吐きますよね。真理を自分たちの主観的な美観で捉えた所で負けている。@nakagawasun 素数が重宝しているのと関係があるのかな?
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posted at 06:15:33
素数はπと等号になるオイラー積や、自然対数eと等号になるガウスの無限論、そしてリーマンのゼータ関数まで、直感的に美的なのだと思うだけど、リーマン予想を解こうとして失敗した数学者は、それらの直感は醜悪だといいますよね。人間と神の戦いね。@nakagawasun
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posted at 06:26:28
@hirougaya さんが、神=真理を前提しないで、主観=真理となり、個人になりきれず同調圧力になる、という話をしていて同感なのだが、では日本人がそれで何が出来ると思っているかが気になるところ。もちろん何もできないのだが、実際には神に代る真理を追い求めているってことだからね。
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posted at 06:34:15
真理は人が触れられない神だということを疑い、真理に触れようとする日本人というのは、一頃、神の国と言われるほどだったのだが、そういうものが神とは私にも思えない。しかし気掛かりなのは、そういう素朴で純真な気概を日本人が決定的に喪失した、ということの方だな。無関心が席巻してるしね。
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posted at 06:49:54
言うまでもなく、哲学を神の(存在の)懐疑と誤解するのは、真理を神という名前で呼ばず、神を人格のような別な偶像に表象している場合なのだが、そういう欺く神というものを厳密に取り払うのが哲学。欺くのはむしろ人で、個人はだから神ではない。つまり誰も神の存在を疑っていない。
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posted at 07:13:04
ところで、デカルトはずっと欺く神と格闘して、猜疑心から方法論を述べてしまう。対するスピノザは、デカルトの哲学原理で、デカルトの神証明を是正し、エチカ冒頭の数ページで、神の存在証明を終わらせてしまう。その結果、方法論を述べない。
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posted at 07:13:17
おそらく、デカルトの方法論では、神はずっと存在証明されつづけなければ疑われる存在ということになるのだろうが(日本の近代性の特徴でもある)、そもそも誰も神を疑っていない、あるいは疑えないものの名前が神である以上、証明はいろいろと別なものを証明する。
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posted at 07:32:49
さっきのリーマン予想の証明でも、証明済みの神に対しての何らかな証明で、それ(素数)が、まだそれほど美しく見えてきていない、という話。なにせ証明に失敗する大数学者が口をそろえて、素数を美しくない、と罵るようだから。神にしか分からない美しさがあるのかもねww (^-^)/
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posted at 07:35:17
数学はほとんど、神の美を人間の美観で分かるか、という話しかしていないから、分かったと思っても解けないというのも、人の美観が劣っているということにしかならず、実はそれ自体で神が存在証明されてしまうのかもしれない、という。数学わからんけどねーww(^-^)/
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posted at 07:49:02
まとめると、人は神ではない、日本人は神がないと思うから個人になれずみんな押し黙る、という話で盛り上がっていて、たまたまリーマン予想の話で、証明できない数学者が素数に醜さをみるのは、それ自体が神の存在証明(=人が神ではない証明)なのね、という話をしていたようだ。(^-^)/
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posted at 07:54:15
ところで、スピノザは神は神という名前ではない、実体だと証明することで、神の存在証明を終わらせているのだが、神が存在証明されていない、あるいは神の存在を懐疑できるというのは、神を実体ではなく名前(名目)と捉えているという話で、先日来、日本人が欧文を漢語の名詞に名目化する話と繋がる。
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posted at 07:59:58
2012年09月22日(土)
うん。演奏することとの距離感、ほんとにむずかしいですよねー。でも若い頃と違って、なんか吹っ切れるとまた楽しめるようになりますよー @poljazzwriter 東京に住んでた頃やってたんです。変に野心を持っちゃってて「演奏するということ」とうまく付き合えなくなって自爆した口です。
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posted at 02:29:08
非公開
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posted at xx:xx:xx
2012年09月23日(日)
昨日生徒さんとリーマン予想の話で盛り上がり、いいわよね数学者は紙と鉛筆あればいいんだから、文系は御本がなと始まらないから、ほんとイヤって話になった。でも数学は言葉の焼き写しだから、本当は御本いらないのにね、って(^-^)/
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posted at 01:58:44
読解塾一限目。近代的自我って何ですか?という質問。神ではなく人が意見を持つ自由を得るが、人は神ではないので絶対的責任を負わない(負えない)ということ。自己責任に責任がないのよー(^-^)/
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posted at 16:45:14
日教組的には、神や真理も個人の意見にすぎないから、国語も個人の意見を持つことなのだろうが、大学受験ではそういう意見を淘汰して、そういう意見の個人性を相対化する真理を正解とする客観テストが前提だしね。
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posted at 16:54:11
したがって、自分の意見を持つように国語教育に仕向けられてしまった子供たちが、そうした自分を相対化する国語力を習得しなければ、受験問題は解けない。バランス良くできてるのよ。(^-^)/
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posted at 18:32:12
続き。文中の第二近代が社会主義って何ですか?というので、計画経済って知ってる? 神はいないから人間が主体的に全て計画できると国有化を進めたら、官僚は人間だから私服を肥やして、計画通りの物が生産されず、人類最大の失敗作といわれた思想だよ。人間は神にはなれない、という教訓だよ。
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posted at 19:31:46
人が神でないという対比を回避すると、個人の意見が神に代わる無限の責任に見えて、disるという人格攻撃だけになる。それを相対化させる国語教育を怠るのは、教師が全ては個人の意見だというイデオローグだからだろうが、そういう思想教育は…以下略。
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posted at 19:44:33
意見か理念か、はたまた説か。この前の田島先生のハイデガー・ニーチェ論、読み忘れてたが、最初の無神論者を排除する宗教戦争は、歌という死者の名前を歌えない無神論者ネアンデルタール人の駆逐だったという説は意見なのか理念なのか?(^-^)/ t.co/VAJfELnJ
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posted at 22:42:42
意見か理念か? 国語は思想教育ではない。とくに受験では、人の主体的な意見や個人は、人格にかかわる絶対的なものだ、というイデオロギーの批判性としてしか成立しない。したがって国語は理念として可能かという問として出題されるといってよい。
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posted at 22:46:50
2012年09月24日(月)
慣習法が機能せず、露骨に文言主義が諸法典を縛って圧殺するから、慣習の側が言葉の意味をどんどん転覆させるのよねー。っていう話を英語の先生としてた。たとえば、穿った見方というのは、ものの本質を捉えるという意味なのに、みんな逆の意味に使いたがるとか。ww (^-^)/
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posted at 01:12:06
その通りだと思います。(^-^)/ @FukushimaKokugo 本来、子どもに速読を仕込むのは危険きわまりないことだと思う。先程から言っているように、その言葉その文その段落に踏みとどまることによって既知を乗り越える忍耐力を、失わせることだから。
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posted at 01:18:46
私も高校生には、任意の一段落だけをずっと凝視させ、何が対比で、何が理由で、ということをじっくり考えさせます。その訓練なくして、文が読めるはずがない。なんで読めるようになると考えるのか、理解が出来ないほどです。(^-^)/ @FukushimaKokugo
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posted at 01:20:36
氏家さんと攝津さんのドーキンスをめぐるツイートが面白かったが、攝津氏がそれについてFBで注釈するのがまた面白い。その中に「『妄想こそ神である』と考えたほうがいい。」という一文があって楽しくなった。つまり妄想だからこそ神が必要という話なのだ。(^-^)/
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posted at 03:23:27
意見は人に帰着する。人は神ではないが神という意見は人に由来する。これはその通りなのだが、それが教育では、個人は真なる意見者になるべきだ、という思想になる。これが先日来、烏賀陽さんが指摘する、人が真理を持っているはず、という人格攻撃の正体。t.co/PQQPittD
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posted at 03:33:02
なぜか議論が人格攻撃になったり、disられるのを恐れて沈黙するのが、同調圧力に転化したりするのだが、これは意見は全て神(という妄想)まで含めて、個人に帰着するというイデオロギーのなせるわざ、というのが烏賀陽さんの指摘だったわけだ。t.co/kZsnDABI
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posted at 03:42:00
したがって、妄想でも意見でも仮象でもなんでもよいが、神という言語上の意味を捨象というより回避すると、人が神になってしまい、かつて社会主義で、人間が自分の力を過信したような悲劇が繰り返される、としか思えない。だから私は意見を持たないで理念しか見ない。
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posted at 03:43:26
昼間授業の合間にツイートt.co/k4ckklDh したように、学校での国語教育は、意見の個人主義化という圧力があるのだろう。しかし、ご承知のように受験では、個人の意見の相対化が問われる。一言で理念といっても過言ではないだろう。
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posted at 03:46:21
ところで、攝津氏が「『妄想こそ神である』と考えたほうがいい。」と述べたのは、ドーキンスが利己的遺伝子を神として妄想しているという文脈t.co/Hr7z8XAS だろう。攝津氏はそれも含めて信じることが出来ない、という意見なのだが、理念というのは信なのだろうか?
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posted at 03:53:47
不信にこそ神という理念が必要と思える流れだ。明らかにデカルトースピノザ以降、神は信ではなくなった。むしろ実体化したようにすら見える。そのことで信が生まれたのだから。神を信じるかどうかが一義的に問われることがなくなったのだ。その議論はおそらくデカルト以前だろう。
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posted at 04:15:27