大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年09月25日(火)
意外と、音楽のコストを上げるとデフレ脱却効果がありそうなわけね。サービス業には不可欠な音楽の絶対需要があるから。いままでそのダンピングが進んだのでレコード会社が瀕死だが、生演奏の義務を課してしまうと、様相を一変できないかしらねー?(^-^)/
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posted at 01:01:45
結局、日本の沈下は、音楽をコピーできる音源にし、その録音技術のような産業に特化しすぎたからなのよね。アメリカで電子産業は民生ではなく軍需だからネット生み出したけど、日本は音楽録音産業しかないも同然。だから沈下がとまらない。それを救うのが生演奏ね(^-^)/
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posted at 01:08:03
日本は戦後民生産業になるけど、その中核は、音を忠実にコピーするという、録音産業が端緒の役割果たしてるからね。しかし軍事産業であるネットにとっては、そんなもんフリーデータだから。日本の凋落が止まらないのも、音楽を録音だと履き違えるところにありそうだなこりゃww (^-^)/
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posted at 01:30:49
デカルト以後、神は信じるかどうかの問題ではなくなった。ところがコミュニストという無神論者にとってだけ、神は信じるかどうかの問題であり続けてしまう。などとツイートしてたら、デカルトbotにフォローされたよー(^-^)/
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posted at 23:34:45
神を基準にすれば対象を信憑できるというデカルト以後、神や真理を信じるかどうか、という点では語れなくなった。つまり神を懐疑しない(できなくなった)がために、対象を信憑できるようになった。と言っていたわけだが。(^-^)/
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posted at 23:36:42
そだよー。デカルト以前は神を懐疑して対象の信憑ができなかった(対象がなかった)だけだからね。神を信じるかどうかで懐疑する人為性はもはやかなり疑わしいと言えるぐらい。@JM_is_alive QT: じゃ近代においては神の存在は疑うまでもない大前提ってこと?全く知らなかったワ
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posted at 23:47:19
非公開
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posted at xx:xx:xx
2012年09月26日(水)
神とか真理とか理念という相手は人(人格)ではないということだから、コミュニストの陥る欺瞞のように人が簡単に否定するのは妄想に追いやられた。@JM_is_alive QT: 神を否定したのが近代とシンプルに思ってました。あーそれでニーチェの近代否定=神は死んだ発言につながるわけか
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posted at 00:00:50
即成近代の日本は神を人格神にするために、未だにデカルト的神を懐疑できるという自己欺瞞に陥るから、海外からみると人間扱いされないよー(^-^)/ @JM_is_alive QT: じゃ近代においては神の存在は疑うまでもない大前提ってこと?全く知らなかったワ
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posted at 00:14:10
うん、キリスト教だと、ローマ皇帝がキリストを神に、つまり神を人格神にしただけだけど、日本では人格神を作るためにデカルト以来の近代を利用したのよ。戦後は、神は人格だからいないという無神論だらけでしょ? 何も議論がない。@LitoSnowfield 戦後に本当に神様が人間になられた
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posted at 00:32:21
そんな風に思っているのは日本の共同主観だけよ。デカルトが近代的自我といったのは、どう見ても神を懐疑しないということと表裏一体。デカルトがしたことは神の懐疑の排斥だけよ。@JM_is_alive 近代的自我を確立させる際に神の出る幕はないような気がするんだけど… いや私全く勉強不足
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posted at 00:34:35
神学の初歩みたいな話なのかしら? 神が人格だという懐疑が、デカルトによって終わったのが近代的自我よ。それで私たちは客観世界が見えるようになったの。でも日本ではなかなか客観世界が見えてこないの。たとえ戦後人格神が駆逐されても、こんどは神は人格だからいない、という話しかない。
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posted at 00:39:00
もちろんです、日本人が神を人格と思うのは、刷り込みです。そんなものいるわけがない。(^-^)/ @JM_is_alive 神=特定の宗教に依存しないなんか超越的な存在って意味なら納得です
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posted at 00:39:52
だから去年から、あらゆる言語の問題は擬人法かそうでないか、ぐらいしか読む場所がないといってたじゃない。人格神はデカルトが終わらせているのに、妄想がいまだにあるからねー。(^-^)/ @LitoSnowfield
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posted at 00:45:38
デカルトって欺く神がいるから、正しい神を構成しないと、対象の信憑性=実在性の量、つまりリアリティーにならず、科学が出来ない、といっただけでしょ? (^-^)/ @JM_is_alive デカルトがコギト何とかと叫んだ時にそこには決死の跳躍
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posted at 00:47:27
とにかく、神が人格だからいないいない、というコミュニストの妄想というのは、どうしても信憑できない。それによって何が言いたいのかがまったく分からないから。今では神を人格神と想定する妄想者は彼らぐらいだろう。
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posted at 01:06:58
@sunamajiri ゼンゼンかっこは悪いです(;_;)ぼー。早起きできなくて夜勤です。早起きできないのは大きなハンデ。とも言えるしそれなりの選択をかんがえなくっちゃ、です。ヒマなので一生懸命読書したいですが、\(^^)/ツイートしてるっつうの。笑
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posted at 05:04:06
2012年09月27日(木)
根底において、現象学者の経験とは、それがどんな対象であっても生きられた一対象の上に、或いは過渡的な形式における日常的なものの上に、反省的な眼差しを向け、それらの意味作用を把握する一つの仕方である。-M・フーコーとの対話-
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posted at 02:55:26
Hegel Japan ヘーゲル・ヤパン @GWF_Hegel_Japan
○対立という区別は、事物のうちにある両極的な区別である。右と左、プラスとマイナス、N極とS局などの区別がそれである。対立は差異とは異なり、事物におけるもっとも本質的で必然的な区別である。
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posted at 10:03:16
理科系の人の日本批判は、たいてい「日本が米国じゃない」という話。そんなこと当たり前だ。彼らは日本の社会科学が「西洋近代」と格闘してきた歴史を知らない。やっぱり丸山眞男から出直さないとだめだと思う。 t.co/Hmc9sCxl
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posted at 10:29:26
2012年09月28日(金)
女と見ると疑うのだな、このニコニコの視聴者は。そこにしかサスペンス効果を楽しめないというのが凄いな。ずーっと疑ってるよ。私このコメントオフにしてみてた時、そんな疑いの目でこのお話みてなかったんだがなー。
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posted at 02:45:39
まずは疑う、疑えば信じられるようになる、と思ってるんだろうね。女をまず疑えば、そのうち信じられる、という物語性みたいな、疑い方ね。それとも、信じれるものは疑いの余地なく現れるから、それ以外はまず疑って掛かる、とか思ってそうね。私は疑う人は信じないけどねーww(^-^)/
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posted at 03:11:35
疑って掛かるというのでは信じるようになれない、信じたところからというのがデカルト的だものねw 女と見れば自分とは違うだから疑って掛かり、疑いさえすればそのうち信じれる女になる、というのは女に失礼よw(^-^)/ @LitoSnowfield 信憑と疑念は自分自身から離れ得ていない
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posted at 03:16:31
疑うのは、信じれないからだろうけど、それは疑えば信じれるという幻想だからねー。そういう疑いは信じれないなー(^-^)/ @LitoSnowfield 疑うというのは…反面の信を問うていないですからね〜
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posted at 03:23:32
2012年09月29日(土)
あと、作家と出題者の意図は違って当然。作家はテストしていない。読書は学びではない。テストにとってのテクストは、あくまで、出題形式にとって問える内容があるかどうか。だから無造作に抜粋する。今年のセンターは珍しく全篇だったが、作家の意図ではないはず。@slitsandfrills
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posted at 00:06:37
しかし、評論では、テストしやすい素材は、近代の使用前使用後のクロノロジー以外は、客観性と信憑に関する哲学的な評論が多くなる傾向がある。国語テストの形式にとって当たり障りがない内容、つまりテストがしやすいからなんだと思う。@slitsandfrills
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posted at 00:29:14
客観性や信ぴょう性、つまり現象学的な弁証法は、こうして国語テストの形式の単純化にとって、とても扱いやすい(から好まれる)。こんなのとか。t.co/KNbvlJal 弁証法ほど読みやすい文形式はないからね。(^-^)/ @slitsandfrills
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posted at 00:36:58
うん、英語で知らない単語があっても、とりあえず文脈で把握できるように、すぐ辞書を引いて解決というのだけだと、読解力にはならないみたいな按配だと思う。うちの塾でもう一人の先生は辞書の意味を教える先生なのだが、たぶん得点に直結しないと思う。@slitsandfrills
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posted at 00:49:22
二年生の男子が、いままで現代文の偏差値が20でビリだったのだが、私の授業一ヶ月半で60に迫ったと、喜びまくってたよー。だって国語は一番簡単な教科だもん(^-^)/
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posted at 22:49:48
2012年09月30日(日)
高2の男子が一ヵ月半で国語の偏差値20が60だかにワープして喜んでいたけれど、国語が一番簡単なテストだからというのと、私は神だ神だとしか言っていないというのが笑える。ただし現代文で、神VS人は、生産から労働、つまり経済の話がすぐに出てくるね。経済では人=信憑って個人ではないからね
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posted at 01:40:34
センター過去問に、ヴェニスの商人は安く仕入れて高く売りヨーロッパを貧乏にしたが、産業時代は労働が利鞘の主体となった、しかしそうした近代もじつは実質賃金率(安い給料)と労働生産性の差額が利鞘で、人間は一度たりとも経済の主体になったことがない、という主体論がでてくる。
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posted at 01:40:48
その経済にとっての主体は人間ではなく、実は差額であり、農村部と都市部の差額がなくなった先進国は経済を喪失したが、そのために差異の創出としての情報産業が生まれた、という話で、マルクスの物神化が躓きの石で出てきてなかなか憎い。
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posted at 01:42:20
子供たちは物神化って?ときいてくる。もちろんフェチのことだが、価値(値段)は売買契約の結果にしかないが、売買成立前に価値があるという錯覚はフェチと文中にある。これはお金だけは物々交換ではなく信用と錯覚するのが新たな宗教の形態だからだよというと、大抵の子供たちは理解するみたいね。
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posted at 01:47:40
たしかに、近代における自由とは、神や自然からの解法のことだが、自由になった人とは、別に個人ではない。信憑や信用というのは個人ではなく、関係性になったときにしかないからだ。たぶん個人では神と大差がない。労働が経済の主体ではない、というのは実は近代以降最も重要な命題だろう。
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posted at 01:51:38