大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2017年01月25日(水)
ここでのデリダの記号論批判は、さすがに周期表は問題視=否定しないね。twitter.com/sunamajiri/sta... のように、二元論として受け止めないというのは、形而上学が形而下との二元論ではないという話だから。@BeTakada bit.ly/2jptlEU
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posted at 23:47:45
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意識が先走ってしまえば、死の病としての終末論なのだが、音楽的には終止形かもしれない。しかし実は人間の意識はそんなものに囚われてはおらず、もっと活力のある有能なものだ。それは何を意識化している時に、活性化されるのか。それが不明では挙動不審だろう。@PiyoMegtan
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posted at 05:24:20
意識は何かを追い越して勝手に先走っている。そこではもはや記憶を想起するだけで精一杯で、明日どころか今日を過ごすのも這々の体だ。ところが実際には何ら先走りなど起こっていない。それは何を意識しているからか。そういう話をしたのはハイデガーがはじめてだろう。@PiyoMegtan
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posted at 05:21:24
想起=読譜から、想像力になるとは、意識とは常に志向意識だが、もし間違った志向対象を抱けば、その意識は先走って、音楽的には決して調和しない。それに対して、音楽的に正しい志向対象を把捉していると、意識は極めて自然に音楽を表現してしまう。それが例の音感の問題だ。@PiyoMegtan
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posted at 04:38:40
想起ではなく想像力だ、というのが現代哲学で文字通りの主題になるのだが、それは音楽とは記憶であり、それは書き留めておき、それを読み出す作業だ、とした近代の音楽教育に対する批判性としてあるからなのだ。@PiyoMegtan
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posted at 04:09:43
プラトンというとイデア論だが、それは近代以後は、人間は記憶を想起しているだけだ、という説。それに対してアリストテレスは、人間は想起しているのではなく、想像力が想起をも含め人間の主要な活力だ、というような説。このことは音楽には非常に大きな問題になる。@PiyoMegtan
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posted at 04:08:10
じつはこれが、プラトン以来の西欧哲学の問いなのだ。人間は記憶を想起しているだけなのか? もしそうなら忘れないうちに外部記憶装置であるノートでもHDDでも書き留めておき、それを読み出すスキルだけを問題にすれば良い。しかし、人間は暗記だけが仕事ではない。@PiyoMegtan
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posted at 03:57:21
音楽は記憶なのか、記憶でないのか。記憶であるなら書き留めて置かなければ、掻き消えてしまうだろう。だから西欧的な音楽教育では読譜のメソッドになっているのだ。読譜ができれば暗譜する必要がない。なぜなら音楽は記憶だからだ。しかし果たしてそうなのだろうか?@PiyoMegtan
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posted at 03:54:44
2017年01月23日(月)
世界内存在というのは、世界を世界観という観念性(イデオロギー)から、剥き出しの世界を取り出すことだが、日本人のグローバリズムというのは、まさにアンチ世界内存在化に見えて仕方がない。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 17:53:49
2017年01月22日(日)
要はデカルトのヒューマニズムでは、たしかに神に相対する人間中心主義という嘘があるのだ。動物論がこれを巧妙に回避するのは極めて秀逸だ。それは単なるアンチヒューマニズムですらない。こうした脱中心化には当然、嘘が限りなく無いということなのだろう。
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posted at 22:25:13
翻って、嘘をつかない痕跡は他者を招き寄せてしまう。それはたとえば、フェロモンは嘘をつかないというようなことであるはずで、そのことで他者は近づいてくる。嘘には責任が伴うが、フェロモンには責任がないのだ。このこと。そこに本当に不安があるのだろうか?
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posted at 22:19:02
デリダはals構造の嘘を見破ったのだが、こうした動物論は嘘をつけるのだろうか? 動物論はカントの二分法を突き抜け、デカルトの二元論、つまり動物の画一化、という嘘に直面させる。人間はこのように嘘つきだが、動物論はこの嘘がつけない。痕跡が嘘をつけないように。
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posted at 22:12:25
ハイデガーが、デカルト的詐欺の責任の不安という話をしているのは、死の病である実存論を転回させるために、比較級を導入するためだが、それは神と人の二対でも、ハイデガーの人間・動物・石という三幅対でもなく、じつはファルスと非ファルスの二対のことなのか。そのあたりを常に考えさせられる。
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posted at 20:07:01
こういうデカルト以来の詐欺罪。それでは嘘とは何なのか? ダニが震撼的なのは産卵だからだが、それを男性が恍惚的に経験できるのか。男性の恍惚が実は嘘の原理なのではないか? pic.twitter.com/40EJYY7eCx
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posted at 20:03:39
先日来、カント書の枢軸、コペルニクス的転回とは本来何なのか、という話をしているのだが、それもカントがそれに気づいてしまったというものだ。カントを科学的認識とする新カント派的な挙措が、無意識の領野に抑圧してしまうもの。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 19:53:45
これがデリダが没する直前まで語ろうとしていたことの大要なのだそうだが、要するにデカルトは体のいい嘘を、嘘だと言わずに語ったのだ。だからといって人間は動物とは違い嘘の責任を負わされるのだ。この不安感を言い当てているのがハイデガーなのだろう。
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posted at 19:42:42
話ができるというのは嘘がつけることだ。動物のマーキング等は嘘が目的ではない。それが他者なのだが、人間は嘘まみれだ。しかし果たしてそうなのか? マーキング=痕跡自体が嘘=誤解を引き起こさないか? つまり予め分かった上で話すというデカルト~ラカン的な責任主体こそ、じつは嘘ではないか?
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posted at 19:23:47
動物は世界という他者に直接開かれているのだが、人間はそれが何の話だか、予め分かった上で話しをしてしまう動物であるがゆえに、世界と世界’の二重性を持ち込んでしまう。それが他者に出会えないということなのだが、これを批判したのがデリダの動物論だ。
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posted at 19:08:42
それは人間が話をする動物だからだが、話をするとはALS構造(~として構造)と呼ばれる。それは人間が何かの話をする時、それがそもそも何の話だと分かった上で話す(探求する)。つまりそもそも論はしない。これが言語遂行的(パフォーマティヴ)だが、そこにデカルトの主体性を見たのがラカンだ。
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posted at 19:01:53
ハイデガーは世界をイデオロギーから解体する話、形而上学批判をしているのだが、実存論では、ダニではないが一生涯を終える先駆的決意性が問題になってしまう。しかし転回後は単に不安が残されるのみだ。人間はなぜ動物ではないのか?
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posted at 18:55:49
これが、ハイデガーの気分論への転回の必然性といわれるものだが、たとえばダニが吸血すると産卵して生涯を終える。そこには人間にはない震撼があり、人間はと言うと退屈で凡庸で性的な恍惚すら曖昧だ。その不安感をヒューマニズム(人間中心主義)としてよいものか、という懐疑だ。
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posted at 18:48:40
動物というのはデカルトが置き去りにしたものだが、動物論とは、基礎存在論では日常性や事実性の解釈学になるが、比較論が度外視されているため、そこに動物は人間よりも性的に開かれている、という審級を導入すことで、方法を補完する話なのだ。
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posted at 18:41:50
なぜ戦後の日本人は、学校教育を通じて科学観を狭隘化され、諸学をはじめ欧米のように生き生きとしてこないのか、という個人的な違和感の話を常にしているのだが、それがリア充になれないことだと精力的に語られたのがハイデガーに端を発する動物論。twitter.com/sunamajiri/sta...
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posted at 18:40:33
ツイートまとめ(^-^)/ ダヴォス討論のピュアリベラリズムと、ダヴォス会議の似非リベラリズムというところか www.facebook.com/kaoru.ohmoto/p... pic.twitter.com/6q9PQ9zTZq
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posted at 10:06:22
先日、ピュアリベラリズムというカント書の論点 twitter.com/sunamajiri/sta... が出てきたが、性を個人的問題という日本的な個人主義は、リベラリズムを偽装するシオニズムと、どこか相性が良さそうだ。
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posted at 09:27:36
このように、処女懐胎という話は、神以上に死んでしまったわけだが、世界をまるでイデオロギー(観念)のように考えがちの島国では、まるで処女懐胎をする母親を渇望しているようなものだ。それを解体したのがハイデガーだが、日本がグローバリズムに囚われたのも、そのあたりだろう。
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posted at 09:25:27
カント以後はすべて音楽論だから、そこに帰結するのは当然なのだが、いずれにせよ、イデオロギー(観念)ではなく、母親に出会わなければ、子供が産まれてこないという、実に単純な話であることに変わりはない。処女懐胎などどこにも無いからだ。
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posted at 09:06:11
ハイデガー~デリダの動物論は、デリダにとっては、ハイデガーの動物論では、人間は単に母親によって産まれたばかりの子供(世界内存在ならぬ母体内存在)でしかなく、子供はエクリチュール=楽譜が読めるようになってこそ、はじめて人間と動物の境界を越える、という話でデリダは息を引き取っている。
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posted at 08:50:57
ハイデガーにとっては動物論は途中経過で、なぜなら人間とは、世界を観念化してしまい、世界に出会えない、つまり母と出会えない存在者のことだからで、これを子供=人間中心主義(ヒューマニズム)と批判するデリダの動物論は、最後は音楽論になるそうだが、エクリチュールの優位をいうのだ。
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posted at 08:45:43
いうなれば、他者としての世界というのは、ハイデガーにとっては子供を産みなす性的な母親のことなのだが、しかしそれこそが形而上学だと批判するデリダにとって他者とは、動物も人間も同じように足跡が残ることに変わりはない、という父なる他者の話なのだ。
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posted at 08:35:06
ちなみにデリダが死ぬ直前まで問題にしたハイデガーの動物論を要約すると、ダニが吸血するのは産卵のためであるように、動物は否応なしに他者=世界に出会うが人間にはそれができない、という途中経過の話なのだが、デリダにとって他者とはエクリチュールで、そこに動物と人間の違いはない、という話。
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posted at 08:32:03
ちょっと歴史に疎いのだが、ハイデガーの決定的な貢献は、カント書に収録のカッシーラーのユダヤ教性の暴露であるダヴォース討論で、これが大陸哲学と英米哲学を戦後混乱させたわけだが、戦後はダヴォス会議といったら経済会議よね。まあ地勢的にジュネーヴだと、ちょっと毛色が違うからだろうが。 pic.twitter.com/2ucks8f0C9
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posted at 08:15:32
ハイデガーの主著『存在と時間』は、世界とはイデオロギー(観念)ではない、という解体の書だが、第二の主著はカント書~動物論、第三の主著は寄与論考、ところが実は主著は、全集刊行後の出版を遺言した黒ノート、つまりシオニズムのイデオロギー性の暴露本だったんではないかと思えるほどだ。
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posted at 08:08:17