大本薫 Kaoru Ohmoto
- いいね数 11,694/13,358
- フォロー 2,831 フォロワー 2,653 ツイート 290,630
- 現在地 東京 LA NY 茅ヶ崎 鹿児島
- Web http://www.sunamajiri.com/
- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2017年01月25日(水)
ここでのデリダの記号論批判は、さすがに周期表は問題視=否定しないね。twitter.com/sunamajiri/sta... のように、二元論として受け止めないというのは、形而上学が形而下との二元論ではないという話だから。@BeTakada bit.ly/2jptlEU
タグ:
posted at 23:47:45
非公開
タグ:
posted at xx:xx:xx
非公開
タグ:
posted at xx:xx:xx
非公開
タグ:
posted at xx:xx:xx
非公開
タグ:
posted at xx:xx:xx
意識が先走ってしまえば、死の病としての終末論なのだが、音楽的には終止形かもしれない。しかし実は人間の意識はそんなものに囚われてはおらず、もっと活力のある有能なものだ。それは何を意識化している時に、活性化されるのか。それが不明では挙動不審だろう。@PiyoMegtan
タグ:
posted at 05:24:20
意識は何かを追い越して勝手に先走っている。そこではもはや記憶を想起するだけで精一杯で、明日どころか今日を過ごすのも這々の体だ。ところが実際には何ら先走りなど起こっていない。それは何を意識しているからか。そういう話をしたのはハイデガーがはじめてだろう。@PiyoMegtan
タグ:
posted at 05:21:24
想起=読譜から、想像力になるとは、意識とは常に志向意識だが、もし間違った志向対象を抱けば、その意識は先走って、音楽的には決して調和しない。それに対して、音楽的に正しい志向対象を把捉していると、意識は極めて自然に音楽を表現してしまう。それが例の音感の問題だ。@PiyoMegtan
タグ:
posted at 04:38:40
想起ではなく想像力だ、というのが現代哲学で文字通りの主題になるのだが、それは音楽とは記憶であり、それは書き留めておき、それを読み出す作業だ、とした近代の音楽教育に対する批判性としてあるからなのだ。@PiyoMegtan
タグ:
posted at 04:09:43
プラトンというとイデア論だが、それは近代以後は、人間は記憶を想起しているだけだ、という説。それに対してアリストテレスは、人間は想起しているのではなく、想像力が想起をも含め人間の主要な活力だ、というような説。このことは音楽には非常に大きな問題になる。@PiyoMegtan
タグ:
posted at 04:08:10
じつはこれが、プラトン以来の西欧哲学の問いなのだ。人間は記憶を想起しているだけなのか? もしそうなら忘れないうちに外部記憶装置であるノートでもHDDでも書き留めておき、それを読み出すスキルだけを問題にすれば良い。しかし、人間は暗記だけが仕事ではない。@PiyoMegtan
タグ:
posted at 03:57:21
音楽は記憶なのか、記憶でないのか。記憶であるなら書き留めて置かなければ、掻き消えてしまうだろう。だから西欧的な音楽教育では読譜のメソッドになっているのだ。読譜ができれば暗譜する必要がない。なぜなら音楽は記憶だからだ。しかし果たしてそうなのだろうか?@PiyoMegtan
タグ:
posted at 03:54:44