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大本薫 Kaoru Ohmoto

@sunamajiri

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Favolog ホーム » @sunamajiri » 2017年01月26日
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2017年01月26日(木)

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

オイディプス時間=無意識は、時間地平にとっての仮象にすぎない。これはたとえば、一頃の映画やドラマが、父親への反抗期や不良を不可欠としたのに、最近ではそういうものが、まったく流行らない、そういうことと同じことなのでしょう。@BeTakada

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posted at 22:09:07

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

潜勢=二元論から読むものは、カントの超越論的時間地平を、オイディプス時間として読むものです。しかしそうした読み=オイディプス・コンプレックスは何も触発しない。それに対してカントの時間地平を、触発するアンチ・オイディプスの時間地平として捉えること。@BeTakada

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posted at 22:04:03

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

先述のように、デリダがハイデガーの形而上学批判を、このオイディプス・コンプレックスは時間にとっての仮象である、という命題から読み取るのは、それが構造主義、記号論の存在者性=仮象性の批判だからなのです。時間とはオイディプス時間ではない。@BeTakada

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posted at 22:01:04

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

さて、GMからGA40の仮象批判(サンシャインのシャインは仮象だ)に直行するなら、直ちにそれがオイディプス・コンプレックスという無意識は、時間にとっての仮象、つまり幻想であるに過ぎず、超越論的時間地平ではない、という謂にアクセスできる。(版面は理想社版)@BeTakada pic.twitter.com/7o80BU6UiY

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posted at 21:57:10

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

これが、形而上学を仮象や宗教と誤解する形而下と、形而上学を宗教ではなく論理的と踏まえる形而上学の違いというと、少し単純化しすぎだが、形而上学とは形而下を含む全体のことで、仮象の謂ではない。@BeTakada

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posted at 21:55:29

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

つまり、二元論ありきという語り方、潜勢が形而下であるに過ぎず、その話者にとっては形而上学とは仮象のことだが、そうした二元論ありきという先措定を排除する現勢的な触発=語りが、全体としての形而上学であり、それが仮象ではないという話です。@BeTakada

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posted at 21:52:01

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

話を整理すれば実に単純で、よく哲学プロパーの言葉遣い=先措定と話題にでるのだが、それ以外の者は潜勢=二元論ありきで触発される形而下。それに対して現勢で触発する形而上学が全体で、そうした全体における存在者とは、全体としての形而上学から触発する話者でしょう。@BeTakada

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posted at 21:41:05

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

ハイデガーのメタ存在論、つまりGMがじんわりと触発するのもこうした点なのだ。論理的と思っていたことが実は全く論理的ではない。その理由は簡単で、二重性=両義性である仮象を論理的だと、信じ切ってしまっているからだ。こうしたドグマを打ち破ること。@BeTakada

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posted at 21:04:59

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

ところで、ここまで語ると、じんわりと来ないだろうか? そうだ、ハイデガーのカント書が言わんとすることだ。カントの論理性とは、科学認識の論理性から見れば、無意識とされてしまうようなことだが、科学的認識=二元論には論理性がない、というあのロジックだ。@BeTakada

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posted at 21:03:06

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

アメリカ人のイメージする日本人は、セックスを抑圧しているというものだ。身持ちを崩すことを世間体で恐れ、性的にならないこと、性的な表出である感情を押し殺して、世間体を取り繕うことを論理的という人たち。ENTはこういう厄介な連中の非論理性を暴こうとする物語だ。@BeTakada

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posted at 21:01:21

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

スターウォーズでは、ジェダイがアメリカ人から見た理想の日本人なのだが、スタトレではバルカン人が、人類=アメリカ人を邪魔だてする、感情を表に出さず論理論理とまくし立てる厄介で不気味な日本人、というキャラだと思えば良い。それが性的に瓦解してしまう。@BeTakada

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posted at 20:58:07

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

ENTシリーズは、カーク船長やスポックの一世紀前の前史で、人類がはじめて宇宙航海に乗り出したいのに、バルカン人が人類は感情的で論理的ではない、と邪魔だてする、仏頂面の東洋人のキャラで登場する。正装は完全に着物だ。アメリカ人から見た厄介な日本人にみえる。@BeTakada

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posted at 20:57:16

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

このバルカン人の仏頂面ほど、日本人のカリカチュアはないだろう。何かを押し殺している。論理的でありたいと信仰している。決して宗教体験という私的な個人主義を信仰しているのではなく、世間体から言って感情を押し殺すことが、論理的だと思いこんでいる厄介な連中。@BeTakada

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posted at 20:46:11

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

ENT17話では、形式主義に陥ったバルカン星から、脱出した異端者が、トゥポルに性的衝動を気づかせる挿話だ。感情を押し殺す論理を信仰するバルカン人だが、実は押し殺した感情が性的衝動だったという論理性。www.usskyushu.com/hoshi/epi/17.h... @BeTakada

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posted at 20:43:32

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

私達の先入観は、儀式的なものは宗教体験的なのだろうと考えてしまうが、バルカン人の言う論理性というのは、非宗教的な儀式の論理性なのだ。しかしそれがじつは性的衝動を抑圧するための、我慢の論理だったとしたら。@BeTakada

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posted at 20:39:16

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

バルカン人は、いわゆる宗教的ではないが戒律的なのだ。瞑想するのも論理のためで宗教体験のためではない。それがENTシリーズになると、女バルカン人が、その瞑想で押し殺した感情が、性的衝動だと言い当てる挿話だらけになってしまう。だからENTは不発だったのだろう。 @BeTakada

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posted at 20:36:50

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

スタトレのバルカン人は、東洋的でもあり西洋的でもある。人類より進化しているはずなのに、やたらと古風な宗教的儀式を重んじている。この形式主義を彼らは、感情を圧殺する論理だというのだが、トゥポルが葛藤している感情は明らかに性的衝動なのだ。@BeTakada

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posted at 20:32:33

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

ENTはシリーズ近作で、女バルカン人のトゥポルが、感情と論理の間を演じるのだが、スポックが単なる仏頂面で感情を押し殺していたのに、トゥポルが押し殺す感情は、どうも性的な無意識らしいのだ。ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88... @BeTakada

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posted at 20:31:09

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

最近Netflixにスタトレシリーズが満載になったので、久しぶりに観返していて、流石にヴォイジャーシリーズの時間パラドックス物は、どれも名作揃いなのだが、不発に終わったENTシリーズの、バルカン人女性トゥポルのキャラが非常に気になってきた。@BeTakada

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posted at 20:27:34

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

じんわり触発するGM(メタ存在論)が概念把握させる、全体としての哲学、学ではない哲学は、さしあたり、仮象である世界観を語る権威ではない哲学という、という退屈な話だが、話がどんどんとめどなくなるので、ここで中断して、話をガラッと変えてみる。@BeTakada

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posted at 20:20:06

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

こうした潜勢=二元論から、現勢へ態度を転回させることが、実は哲学外、つまり諸学の語りを可能にしていて、そうでなければ諸学=形而下は、仮象を語ってしまう。そういうことであるに過ぎない。タカ基地さんの語りが妥当な根拠も、そこにあるのでしょう。@BeTakada

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posted at 19:39:46

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

形而上学が形而下の仮象であるとき、語りは終末論や決定論を、永遠の謂として語ってしまう。しかし現勢的に形而上学が全体である時、語りは永遠をそのようには語らない。単に話の持続、永久な語りのような様相を呈してくるのだ。それが一冊に収まらないのは明白かもしれない。 @BeTakada

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posted at 19:37:11

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

私たちは、二元論という構え=潜勢を前提とすると、平易な語りはアフォリズムが仮象を語ってしまう。しかし、一元論=現勢という構え(態度)になると、平易な語りは全体を語るのだ。それを(仮象としての形而上学に対する全体としての)形而上学というのだ。@BeTakada

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posted at 19:34:51

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

この散文体=語り方が得難いのだ。『存在と時間』が難解な語りで頓挫し、平易=退屈な語りであるメタ存在論という真の主著へ転回することが、内的必然性であるというのも、このように二元論ありきでは、なんら思惟が触発されないので、一元論へ態度を転回した、ということなのだ。@BeTakada

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posted at 19:31:48

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

私は、経典が散逸する東洋的なものより、聖書のような一冊を語る西欧のほうが、居心地が良いのだが、それにしてもハイデガーは散逸的だ。これという一冊=主著を決めづらい。しかしおそらく、真の主著といわれるGMには、こうした平易な文体があるということなのだろう。@BeTakada

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posted at 19:24:39

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

話題が死滅するとは、話題が触発的に持続しなくなることの謂だが、それは証明不可能だからでも権威がないからでもない。そうではなく、仮象を語っているからなのだ。デカルトが仮象を語ってしまったこと、そのことをカントに依ってハイデガーが現象に引き戻そうと触発すること。@BeTakada

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posted at 19:24:19

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

まるで、私達のTLでは隠者君の構え方だ。これは蛇足だが、隠者くんはハイデガーの真の主著と同じような話題をするのだが、おそらくはデカルトの語り方をしてしまうために、そうした話題(性)が死滅してしまっているだけなのだ。@BeTakada pic.twitter.com/4zLuGwuCuL

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posted at 19:22:35

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

GM20p「反論者はエヴィデンスというが、哲学が証明などしたことがあったか? 証明可能なものは本質的に常につまらなく、根本的に値打ちがない。ところが哲学は本質をいうのだから、つねに証明不可能なことにならないか」。こうやってほんの一部を引き合いに出しただけで~ @BeTakada

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posted at 19:22:02

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

「哲学教授が喋れるのは、権威があるからではない。要するに、我々が理解されない、という一事に基いているに過ぎない。我々が理解されていない間だけ、この疑わしい権威が味方する。しかし、我々が理解される時、我々が哲学しているか否かが露出する」GM19p とか~ @BeTakada

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posted at 19:21:39

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

それに対して、ハイデガーの端的な饒舌さのあるGM冒頭(だからGMは真の主著といわれるそうだが)では、哲学が証明や権威でないことが、あまりにもやすやすと語られる。曰く~ (GM19~20) @BeTakada pic.twitter.com/xkEVOFJTx0

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posted at 19:01:50

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

それに引き換え、我々は手続き的に面倒だ。デリダでさえ記号論批判からしかハイデガーにアクセスできなかった。私たちはさながら小説批判からしかハイデガーにアクセスできない。それほどイントロが硬直してしまう。それに対して、@BeTakada

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posted at 18:55:14

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

なぜ人が弁証法や仮象にかくも囚われ、思弁の全体を掌握できないのか。このように思弁とは、弁証法のように仮象を前提としていない。思弁からはじめて思弁で終わること。何かから思弁が起こり思弁が頓挫するのとは訳が違う。そのように話題が持続すること。@BeTakada

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posted at 18:46:59

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

ハイデガーの時間論は、第一次大戦後の偽パウロ書簡解釈であるクロノロジー、決定論や終末論から、パウロ書簡のカイロロジーへ突破する語りの触発のことのようだが、それは思弁は仮象ではない、というようなことに直結している。@BeTakada

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posted at 18:38:31

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

ところで、触発的な時間=語りは、話がノンストップに止まらなくなることの謂、つまり口籠りの正反対のことだが、それは思弁的なものの全体を否定する仮象、弁証法とは全く異なるという謂なのだろう。@BeTakada

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posted at 18:35:36

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

しかしおそらく、これも明白なのだろうが、ハイデガーからは小説のほうが、病的なのだろう。触発する語りを小説言語に封印してしまえるのは、冒頭からあるように、仮象としての形而上学があったればこそだからだ。このように散文にとって小説ほど不可能なものはなかったのだ。@BeTakada

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posted at 18:24:03

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

これは蛇足だが、ハイデガーがサルトルとは違い、小説言語でこの触発する語りを実践しなかったのは、おそらく詩作だからなのだ。それは小説の散文が、詩作には及ばないということなのだが、だからこそ(その反作用で)、ハイデガーの散文ほど触発的=饒舌な病はないのである。@BeTakada

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posted at 18:19:54

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

そのように触発され・する語り。それがGM講義の退屈論=メタ存在論といわれるものなのだが、たしかに興味に頽落した人から見ればこんなに退屈な語りはない。なぜなら、触発されて語りが止まらなくなることを意味しているからだ。普通なら小説の語りで済ませるところを。@BeTakada

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posted at 18:17:46

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

仮象としての形而上学にとっては、意識は単なる心理学で、そうした心理学にとっては純粋自己触発=超越論的構想力=時間地平は、無意識化されてしまう。それに対して、全体としての形而上学にとっては、時間地平が意識という現象になるのです。そう触発されること。@BeTakada

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posted at 18:14:33

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

ハイデガーの形而上学批判期は、カント書の直後、つまりメタ存在論だが、カント書では、触発の先経験性=超越論性、純粋自己触発が時間地平だと言明される。つまり、触発とは二元論という仮象を回避する、意識のことなのです。@BeTakada

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posted at 18:11:35

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

このように、カントが開発した、仮象か現象かという二分法(表象論)は、形而下に対する仮象としての形而上学と、そうではない全体としての形而上学、という分析を容易にするツールであるに過ぎず、冒頭から注意を喚起しているように、なんら二元論を意味しないのです。@BeTakada

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posted at 18:04:13

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

哲学、カント書的には超越論的構想力が、一般に考えられているような無意識でないこと。それが原点ならぬ根源地平となれば、デカルトの汝語りから、ウィトゲンシュタインのアフォリズムに至る語りよりも、明白に触発することができる。そこでは仮象としての形而上学がない。@BeTakada

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posted at 17:58:12

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

それほど、仮象としての形而上学は危うい。それは何も触発しない。つまり哲学の語りを造形しない。それに対して、形而上学を全体だと前提すると、哲学の語りは全てのものを触発し始めてしまう。哲学の語りがすべてを産み出す、そういう語りかけが実験されている。@BeTakada

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posted at 17:57:49

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

いまや、英語などグローバルな共通語でしかないが、ハイデガーを批判する柄谷の実存は、単に英語コンプレックスのプラトニストというだけだろう。日本人の陥る英語コンプレックスというのは、全てハイデガーが言い当てているのだが、そうしたものは何も触発しない。@BeTakada

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posted at 17:57:34

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

GA40といえば、柄谷のトラクリが、GA40だけの受売りで、ハイデガーのラテン語文法学批判を、語源学のナショナリズムと誤解して転倒するが、後にハイデガーはブレーメン講演で語源学に触れ、英語こそ「thing=物」に「事」を含む、正確な語源学だと喝破するほどだ。@BeTakada

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posted at 17:48:47

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

仮象から現象へ、仮象としての形而上学から、形而上学という全体へ、触発する語りかけ。こうしたハイデガーの触発的な語りの文体、つまり平易な文学のような語りはGMでむしろ絶好調で、デリダが記号論批判の着手点として読解するGA40が出涸らしに思えるほどだ。@BeTakada

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posted at 17:42:54

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

良質な小説を堪能して触発されるのと全く同じで、ハイデガーには実は感動だけがある。概念把握すれば、たかだか仮象としての形而上学から、全体としての形而上学へと触発し、誘発するものが哲学という語りかけだ、とより丁寧に語りかける。残るのは触発されてあるものだけになる。@BeTakada

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posted at 17:34:36

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

GMの語りの文体は、本当に触発的で、触発されてツイートが止まらなくなりそうで困っているのだが、このように触発されることこそ活力源なら、どう触発され・するか。デカルトに端を発する汝語り~アフォリズムから、どう180度転回するか。人は如何に人を触発できるか。@BeTakada

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posted at 17:29:22

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

人類の中でも、日本人には無意識になってしまうものがあるね。カントは音楽を抑圧しているのだが、それはカントを科学だという読みから言えることで、じつはカントは音楽の話をしている、というのがハイデガーから読まれるべきことだからね。@LitoSnowfield

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posted at 07:13:44

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

今日のハイデガー読解は、カントが産んだ科学という観点からカントを読むと、実は無意識化されてしまうものがあり、そういう無意識を踏まえて読むと、実は読めなくなるものがハイデガーだよ、というような構図の話。twitter.com/sunamajiri/sta... @LitoSnowfield

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posted at 07:10:56

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

このように、いわばカント以来明確化された(つまりカントの偉業というのはコレのことなのだが)、仮象と現象の弁別というのは、端的に、二分法を二元論と受け取る仮象と、それをしない現象という程度の意味で受け取ると、見通しやすくなる。ハイデガーが平易に語れる所以です。@BeTakada

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posted at 06:12:20

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

二重化=仮象というのは、論述のような語り方において、二分法が起こることを、それが二元論という主題だと、誤解して受け取ることなのです。そのような仮象によっては、存在は起こらない。つまり人生観では人生は送れないのです。世界観では世界内存在ではないように。@BeTakada

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posted at 05:27:08

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

GM(退屈論)の書き出しは、哲学とは学ではない。ましてや大学で概論ができるような教科ではない、というのです。ましてや、そう語ったからと言って、それを引用してハイデガーの説だといっても無意味だと。@BeTakada

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posted at 05:24:22

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

このように、ハイデガーは、形而上学とは(二元論者がそう踏むような)仮象の謂ではない。それをするから哲学は退屈だが、重要な話なのだ、というのです。この重要な話を取り逃がすと、とたんに退屈な哲学が仮象に感じられ、(諸学は)概念把握が覚束なくなる。そんな話でしょう。@BeTakada

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posted at 05:22:54

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

しかし、それにもかかわらず、こうしたハイデガーの平易で退屈な語りかけに、何か仮象を嗅ぎ取るとしたら、そこでの仮象=二重性は、読む側の負い目でしかない。その者は必ずや、哲学を仮象だと誤解してしまう。二元論者という点から読むと、GMの語りはじめは、そう聴こえる。@BeTakada

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posted at 05:15:12

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

世界内存在とは、人生も世界も、概念把握しないことだが、それに対して日本人はどうしても躓きの石を抱えている。それは西欧を概念把握する、という二重性を抱えながら、世界を世界観だと錯覚してしまうからでしょう。ハイデガーは、そうした仮象=玉葱の皮を丁寧に剥いていく。@BeTakada

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posted at 05:10:33

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

そういう話を、例によってハイデガーは、それをほど力むこともなく、じつに平易に、滔々と語りかけていく。ある意味では実に退屈な話なのです。哲学は人生観や世界観を概念把握させてくれるはずだ。そのような先入観では、とても言えないことが語られる。@BeTakada

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posted at 05:03:37

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

それほど、コトバは人を騙すのです。語り=騙りといわれるとおりです。そこに誠実さをみようとするとき、まず疑わなければならないのは、二重性は外からやってくるのではないということです。自分の方から二元論になり、斜に構えて物事をみてしまう。それをしないこと。@BeTakada

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posted at 05:01:22

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

先程の話に戻れば、私的なものほど最も公的なのです。公私混同というコトバに日本人は翻弄されるのが大好きだが、そういう諧謔とは違って、哲学というのはもっと素直で、公的なものを偽装したり、欺瞞を言わない。そういう趣旨がGMの平易な語りかけに現れているのでしょう。@BeTakada

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posted at 04:58:31

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

ハイデガーに一貫しているのは、哲学は仮象ではない、つまり世界は世界観ではない、イデオロギーではない、という一点です。しかし、そうした仮象がなぜおこるのか? それはあらかじめ二元論で哲学を二重写しに見てしまうからなのです。@BeTakada

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posted at 04:56:47

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

じつは、後で版面をスキャンできるかもしれないが、ハイデガーの語り口は、もっと平易です。おそらくGMの書き出しほど、平易な文体はないかもしれない。ごく当たり前のこととして、仮象論者が哲学を素通りしてしまうことを、言い当てている。@BeTakada

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posted at 04:55:02

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

逆説すれば、哲学を世界観だと企投する二元論者には、哲学が退屈な仮象に見えてしまう。そうした両義性が、哲学を世界観や道徳に仮象化させてしまう。仮象が何ら概念把握させないのは当然であると。だから、はじめに二元論ありきでは、哲学は仮象になってしまう。@BeTakada

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posted at 04:53:39

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

GMの書き出しは、こうした二重性という構え=二元論を、こう語って聴かせる。哲学はいかにも重要そうな話し方をするが、その実、道徳も世界観も仮象としてしまうので、何一つ概念把握させない。教員が哲学を語れば、誰でもが退屈してしまう。それは哲学を仮象だと考えるからだ。@BeTakada

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posted at 04:45:55

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

ここからしばらくGMの書き出し部の読書メモに脱線します。こうした二重化、つまり仮象(シャイン)は、どこにあるのか? はじめに二重化ありきで、哲学を聴いてしまうと、哲学ほど退屈なものはない。何か他のことがある、つまり二重化があると錯覚してしまう。@BeTakada

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posted at 04:43:25

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

このように、デリダはハイデガーの形而上学批判期を、記号論批判、つまりデカルトは、私という単語を疑わなかった、というところにもっていくのです。私を疑わない私。それでは私が公共化されることは、たぶんないでしょう。それがあらゆる二元論の迷走です。@BeTakada

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posted at 02:56:16

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

哲学は私的だから公的なのだが、そこから翻ると、タカ基地さんの冒頭の発問 twitter.com/BeTakada/statu... は、哲学=超越論的構想力を無意識に封じ込める、二元論者の狭隘化に聴こえないこともない。狭隘化という範疇があるならば、だが。そこが難しいところ。@BeTakada

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posted at 02:52:13

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

おそらく二元論者には、ハイデガーの超越論的構想力(時間地平)が、フロイトの無意識のようにみえてしまうのだが、そうした二元論、つまり私的なものと公的なもの、哲学的なものと公共的なものという、悪しき素朴論であり、傾聴に値しないでしょう。@BeTakada

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posted at 02:40:59

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

ハイデガーがカント書でいう、カントが思惟した当のものは超越論的構想力だ、というのは哲学とは何者とも比較することができない、というようなことです。何か他のもの、哲学の外部、そのようなものとの二元論が不可能な、そういう範疇。それは意識に対する無意識ですらない。@BeTakada

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posted at 02:33:44

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

日本では、柄谷行人のトラクリが、こうしたハイデガーのカント解釈を矮小化させる、マルクス的な可能性の中心、つまり唯物論なのだが、それは素朴論であり、超越論的ではない。柄谷は坂部恵にそそのかされてカントにオイディプス・コンプレックスを抱いただけだ。@BeTakada

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posted at 02:14:34

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

動物にとっては性的震撼も死も、無意識でもなんでもない。それを無意識に抑圧したもの、それがカントを科学的認識に矮小化・狭隘化・貧困化させたものなのです。カントを二元論と捉える人たちのことだが、そのようなものはどこにもない。それがハイデガーのカント解釈でしょう。@BeTakada

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posted at 02:11:10

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

ハイデガーだけが突破したsheine論(デリダ側からは記号論批判)は、いわゆるオイディプス論です。動物とは違い震撼できない人間がオイディプス・コンプレックスで神を捏造して、性的エクスタシーに至る。それを無意識に封じ込めたのは誰か? そういう話だと見立てています。@BeTakada

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posted at 02:01:16

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

要は、比較という範疇ではない形而上学を、形而下との比較という範疇と捉える、いわば心理学的な錯誤は、すでにして哲学=形而上学ではないのだが、そうした隘路がどこで分岐したのか。そういう話でしょう。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada

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posted at 01:52:41

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

デリダはハイデガーを逆順に読解しているのだが、それは記号論批判あればこそなのです。ハイデガーは記号論批判に達するが、デリダはハイデガーの記号論批判(sheine論=オイディプス論)から逆向して、カント書のbild論に読解を完全突破させようとしているのです。@BeTakada

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posted at 01:47:12

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

記号論批判というのは、記号の現前性を非現前と錯誤すること(プラトニズム)への批判のことです。twitter.com/sunamajiri/sta... ハイデガーではbild論=カント書があるので、正順でこの記号論批判に至るのです。@BeTakada

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posted at 01:46:09

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

つまり、動物は生殖のために死んでしまうが、人間の生殖は必ずしも震撼的に死なない。つまり性的エクスタシーが弱いということなのだが、これが退屈論=感動しない人間という話で、こうした範疇が、デリダでは逆向きに精密化される。それが記号論批判です。@BeTakada

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posted at 01:41:10

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

言い換えると、比較の範疇を度外視することである基礎存在論=実存論的分析では、先駆的決意性だけが震撼となってしまうが、じつはそれは動物論的比較へ転回していないからであり、じつは性的震撼とは先駆的決意性のことではない、という転回がなされているのでしょう。@BeTakada

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posted at 01:38:30

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

GMでは、この比較ができない形而上学は、何を比較しているのか、という話になる。それが動物には性的震撼があるが、人間は選択的であるために、そうした震撼がないため退屈である、という動物論こそが、比較の範疇だ、という話。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada

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posted at 01:36:32

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

それは、GA31の宗教と哲学の比較(二元論)より、GMの比較できないという思考の範疇を形而上学と語る方が、より哲学的に強いからでしょう。このように、哲学、つまり形而上学とは比較をしない思考の仕方、範疇だということです。@BeTakada

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posted at 01:34:13

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

ちなみに、GMではそこまで比較が踏み込まないと言ったが、後続するGA31『(カントの)人間的自由の本質について』講義の冒頭は、まさにこの哲学と宗教の比較論です。前から繰り返しているが、ハイデガリアンの読解はこのGA31を軽視するのだが。@BeTakada

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posted at 01:31:37

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

GM冒頭にあるが、形而上学とは宗教ではないことです。ハイデガーはそこまで踏み込まないが、なぜなら宗教は比較のしようがあるが、形而上学は比較のしようがないからでしょう。そういう思考の範疇とは何なのか? ハイデガーは感動を引き合いに出す。たしかに宗教では感動しない。@BeTakada

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posted at 01:29:32

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

形而上学は形而下との比較論ではない当のもの=範疇だが、では比較論という(思考の)範疇はどこにあるのか? つまり実存論は非比較的な範疇だが、比較を実践できるのはどの範疇か、というのが退屈の比較を通じた動物論です。twitter.com/sunamajiri/sta... @BeTakada

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posted at 01:25:35

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

GA31のカントの自由論の冒頭が、哲学とは何か?から始まるが、GMは形而上学とは何か?から始まり、それは諸学どころか芸術や宗教との比較=二元論ではない、という特徴のことで、哲学も世界観を告示するイデオロギーではない、という話が引き継がれていきます。@BeTakada

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posted at 01:18:40

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

先程のタカ基地さんの周期表こそ形而上学だというような話が妥当なのは、周期表は非周期表との比較論ではないからです。同じように、形而上学を形而下と比較すると、それはすでに二元論であって、形而上学ではない、というような話だと思えばよいでしょう。@BeTakada

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posted at 01:15:55

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

ハイデガーの形而上学批判期というのは、実存論は比較論ではないが、それでは比較という思考の範疇はどこにあるか、という発問です。このように範疇論というのは思考方法の分類なのだが、ハイデガーの形而上学批判期は、形而上学とは比較できない思考法のことだ、という話です。@BeTakada

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posted at 01:11:49

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

デリダは記号論をプラトニズムとして批判するのに、ハイデガーの形而上学批判期を逆順に読解することで、精密化させているのです。それは存在者と記号は等しく現前的だという話で、それがハイデガーではGA40のSheine(仮象)論、いわゆるオイディプス論です。@BeTakada

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posted at 01:10:53

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

カントを科学的認識論と狭隘化させると、端的に無意識化される当のものが、そうした認識の源泉根拠だ、という話です。いわば無意識でないものを無意識に抑圧してしまう。そうした科学的認識の二元論が懐疑されているのです。twitter.com/sunamajiri/sta...
@BeTakada

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posted at 00:12:44

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

それは、現前した存在者とは記号のことだ、という記号論のプラトニズム性の暴露=GA40のシャイン論なのだが、ハイデガーは記号論批判を免れているのです。なぜならカント書のビルド論から開始しているからです。カント書の枢軸の話は、この前からしているとおりです。いわく、@BeTakada

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posted at 00:08:22

大本薫 Kaoru Ohmoto @sunamajiri

17年1月26日

問題は、ハイデガーの形而上学批判期(形而上学は形而下との二元論ではない)が、カント書のビルド論(図式論)から、GMの退屈論=動物論、GA40でのカントであるシャイン論=仮象論と深まるのに、デリダが記号論批判から逆行しているので、見えづらいだけです。@BeTakada

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posted at 00:04:27

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