大本薫 Kaoru Ohmoto
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- 自己紹介 natural-born Jazz Flutist。ジャズフルート奏者。フルートらしさ(フルーティズム)よりジャズが本体の破壊者。幼少より渡米。ジュリアード音楽院、コロンビア大学文学部院卒。全米ジャズ教育協会会員。英米で流行りのハイデガー論者。てげてげでアドリブする現存在。17年鹿児島移住。コロナ禍で休眠中。
2012年10月27日(土)
ほんとその商売。まあ営業ならわかるが、講師が不動産屋のイデタチだったら、私なら詐欺師とみるな。そんな服装でイメージ作りしている予備校なんて、頭古すぎて受かるわけないじゃないねw @NudistExercise 地味なスーツで信用させるなんて不動産屋とか株屋みたい(^-^)/
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posted at 00:11:36
そうそう、カントが(方法も方法序説も方法論もなくて)アホ(^-^)/ t.co/cA8GBKyv 方法は事柄の展開だというのは、ヘーゲルのカント批判のすべてです。
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posted at 02:39:05
ラカンが〈クッションの綴じ目〉の説明で言いたいのは、〈音(シニフィアン)〉とそれが担っている〈意味(シニフィエ)〉、文とそれが生み出す〈意味作用〉との間の絆が壊れると、人は無意味な言葉の連鎖の中に投げ出され、意味に支えられていた自我の同一性が崩壊し、狂気の状態に陥るということだ。
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posted at 03:35:48
2012年10月28日(日)
私達はメルロ=ポンティも言うように、〈意識〉か〈無意識〉かの二者択一を迫られてはいない。意識は無意識の顕在化であると同時に、無意識は意識の産物である。自我はエスが物象化したものであると共に、エスも自我が無ければ生まれない。『言葉・狂気・エロス』
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posted at 02:04:30
こういう風に、身内だからと一線を越えて非難がましくなる日本の女というのが、すべての元凶におもえるほどだ。他人だと同情したりするくせに、身内となると鬼の首をとったように人格攻撃を平気でするのが日本の女。そういうのがいるから、いつまでたっても日本は封建制ww(^-^)/
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posted at 22:50:05
塾は風邪で休んでいるが、母は行ってるとおもってるらしく、四ヶ月も無給でなにやってるの、とかぎゃーぎゃーうるさくて、どうにかしてくれ。事情説明しても理解できないようで同情もしない。超自我にでもなったつもりなのか、糞ばばあ(^-^)/
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posted at 22:58:54
音感と脳の音感って、そんなに違うものなのかしらねー?(^-^)/ @komitetsu 俺は音感ないからさ、脳の音感の部分で何か別の働きしてたらいいなって思うの。
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posted at 23:04:06
こういう時にメルロは頭がすっきりする。ちょっと楽器の習得の機械化・自動化の教育について考えていて、この「自動化」などない、無意識などない、そう思い込んでいるのは反省だけで、行動という次元からは自動化も意識だ、というとこ再読。 t.co/wY60aOel
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posted at 23:26:01
t.co/wY60aOel - 反省という次元が身体と意識を区別すると、行動の次元で統一されていた指示と把握、抽象的運動と具体的運動が別々に説明されてしまう。メルロ知覚の現象学211p付近。
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posted at 23:28:22
この前、外人(のたぶんクラシックフルート耳)にお前の演奏は自動化しすぎていて耳が悪いと酷評されたのだが、メルロによると自動化しているのが耳だということになるな。現象学を教えないと駄目だなクラシック奏者には。t.co/FWGk7rFo
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posted at 23:34:34
コルトレーンとかは自動化しすぎてスピリチュアルになるのだが、その自動化をクラシック奏者は許せないというのだが、それはつまるところ耳が悪いということだ。無意識や機械化があるというのは、二元論的で現象学的には定立しないのだ。@sunamajiri
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posted at 23:36:48
第三者からは、自動化や機械化しているように感じるジャズのアドリブも、実は当人にとってはその自動化が彼の意識なのだ。そこにあるのは無意識があるはずという二元論の陥穽だろう。無意識や心といった二元論は当人にとっては存在しないのだ。@sunamajiri
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posted at 23:41:50
t.co/wY60aOel - ここでメルロは、プラトンに始まる指示能力という経験論が、デカルトやカントの省察を経て誇張された結果、心理学と生理学という二つの説明を生んだが、しかし、行動の地平からは、指示と把握は統合されており、それらの説明は無効だ、と言っ
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posted at 23:49:50
2012年10月29日(月)
現象学的還元を果たした現代思想から見ると、エマニュエル・バッハt.co/JBK7yW6c に始まるクラシック教育がt.co/wrVdZ7qt という錯覚に陥っていることを、脱構築しているに過ぎない@sunamajiri
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posted at 00:00:22
つまり、現象学的還元にとって、第三者の視点が顕在化させてしまう、自動化や機械化や無意識や心なるものは、存在しない。言い換えると、第三者的視点である心理学と生理学の説明は、説明ではない。@sunamajiri
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posted at 00:03:34
おそらく近代クラシック教育が、音感などもろもろの要素を分節化するのも、奏者は聴かれる第三者の相手がいると想定している。この第三者化となる時、二元論がうまれるのだが、当人にとってそういう二元性(心と身体)などというものは、存在しない。無意識も意識だ。@sunamajiri
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posted at 00:05:15
実際に奏者は、聴かれることを前提に訓練されるが、聴くほうはそのような聴き方をしない。奏者のパッセージが自動的なら、その自動性を聴く側も美観で聴くのであり、クラシック教育のいうように、自動性や機械化は価値的に低いのではない。@sunamajiri
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posted at 00:08:11
うん、現象学は、身体の能力を明らかにするのだけれど、当人にとっては自動化された所作も、第三者からみえるように無意識や機械化ではなく、それが当人の能力だ、ということになってしまう。だからクラシックの教育がおかしい。@komitetsu あと第三者を想定した切り口、理解しました♪
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posted at 00:09:40
辻井 勝 Katsu Tsujii @aoinatsunosora
これ、わりとよく読めてるほうだと思う。「京都大学学術情報リポジトリ:メルロ=ポンティにおける "间身体性"の教育学的意義: "身体の教育"再考」 t.co/OZfO1Bru
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posted at 00:17:47
メルロは、抽象的能力の欠損した症例を、能力の説明とする心理・生理学は、説明(分からせること)になっていないとする。抽象的能力とは、ちょうど楽器初歩の人が楽器を構えられないような、身体による空間把握の能力なのだが、たとえそれが自動化しても、それが自動化したことが能力なのではない。
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posted at 00:26:06
ここで問われてるのは、説明(分からせる)になっているかどうかなのだが、身体が抽象的に空間を把握する能力が自動化されるから、行動できるようになるという説明では、分からせることが出来ない。たとえば、楽器の習得では、それでは分からせられないのだ。t.co/wY60aOel
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posted at 00:29:00
たとえば、受験国語で問われる説明t.co/a6MXtkOb の可否というのも、実際には文脈の言い換えであっても、あらかじめなされた説明を、説明しなおす、端的な能力が測定されているだけであるように、あらゆる説明は心理学的・生理学的な説明より端的なはずだ。
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posted at 00:32:28
個人的には、メルロのテクストt.co/b0y2r5Knをどう誤読すると、統合失調になるのかに興味がある。知り合いのメルロ研究者はピアニストでもあり統合失調後、身体運動がおかしくなった。
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posted at 00:45:45
じつは昨日のアッシーは、そのメルロ誤読で統合失調になったピアニストとの唯一の接点で、私は危険人物なので面会謝絶だが、彼を通じて最近の病状が伝わるのだが、投薬のせいもあり、ますます身体が言うことをきかなくなり、ピアノも弾くがリズムが取れなくなっているらしい。@sunamajiri
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posted at 00:55:06
世界内存在の端緒を更新する記述は、現象学的還元が完全な還元の不可能性の発見であったゆえに、むしろ身体を変容させる教育(世界を分からせる説明的行為)としてこそ意義がある、という奥井氏のメルロ的教育論t.co/tcOlG4Cu なかなか読みやすかった。
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posted at 06:27:03
とくにフッサールの生活世界に対して、生きられた世界が身体によっていかに更新されうるのか。この更新され続ける世界が、還元されざる現象学的営為であり、すなわち身体による世界の更新こそが、端的に教育だ、という命題化は、大変分かりやすい。@sunamajiri
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posted at 06:34:40
ところで無意識や自動化や機械。現象学的還元は、身体にとっては実は世界の更新でしかない、というメルロ的な生きられた世界では、機械的な身体ですら生きているので、客観科学の側が人間を機械論で捉えても、説明されたことにならないのは当然。説明とは常に世界の生きた更新。
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posted at 06:57:14
SFでは機械に対する物語フォーミュラが、機械を凌駕する神化の存在論と、その存在論が欠如して機械化したがる日本のSFで対照的にみえるよね。久しぶりにこれ観ていた。探査機ボイジャーが数百年後に創造主と合体しようと地球を襲う話。
t.co/hPIGxgcp
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posted at 06:57:24
本当にメルロは、サルトルと対照的に、生きるために書いているよね(身体による世界の更新を記述している)。t.co/8OTesNQh 書くという欲求は生きることの拒否に包まれている。サルトル『言葉』
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posted at 07:34:43
このように、記述とは常に現象学的更新なので、その点しか採点基準がないという。どんな自由作文的な課題文でも、一端それで客観テストをして採点しようとすると、選択肢だろうが説明を求める記述問であろうが、端的に世界を更新する説明になっているかだけが、採点されるからね。
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posted at 07:39:33
なんかTLにラカニアンなRTがあったのだが、そう考えるとやはり、t.co/cwzike5Q 「ラカンはメルロ=ポンティを都合よく読んでいる。」という妥当性だけが、際立ってしまうという。(^-^)/
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posted at 08:14:56